剣岳(百名山-6)


- GPS
- 256:00
- 距離
- 23.7km
- 登り
- 4,501m
- 下り
- 2,431m
コースタイム
11日 避難小屋〜劔岳〜劔沢
12日 劔沢〜長次郎谷〜八峰5.6コル〜劔岳〜劔沢
13日 劔沢
14日 劔沢ー立山ー室堂
15日 室堂ー富山
アクセス |
利用交通機関:
電車 バス
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予約できる山小屋 |
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感想
北アルプス縦走のはじまり・剣岳
一九六七年夏の記憶
北アルプスの縦走の出発点を剣岳(2998巴 にしたのは、早月尾根から剣岳にその昔登った声」とによる。私が妻と企てた黒部五郎岳から笠ヶ岳までの縦走と、鹿島槍ヶ岳から唐松岳までの縦走とをつなぎ合わせ、北アルプスを大縦走するには、必然的に剣岳が初めの山となる。剣岳を北アルプス大縦走の最初に取り上げる。もし一つしか山を選ばなければならないとしたら、私は槍ヶ岳や穂高岳を差し置いてこの剣岳を選びたい。この山ほど豪快でかつ繊細、日本にはない山の印象をうける。室堂から見れば恐れられるほど厳粛な姿であり、仙人池・池の平の眺めは荘厳にして優美、剣沢の雪渓から見上ればハツ峰の岩滝谷の暗さとは比べ峻険でありながら明るい。毎年登れるものならこの剣岳を選びたいものである。十代に登った山として思い出の強い山である。
北アルプス北部の縦走は、一九六七年の夏、私が二十一一才のときに始まる。私は上野に拠点を置いていたエフアルパインクラブ(FAB に所属して五年目、夏合宿は剣岳になった。その前二年間は穂高岳掴沢での合宿であったが、剣岳の合宿に、全員喜んだ。FACは谷川岳南面を主たる活動の場としていて、成果をあげていた。アルプスに目をむけたのはその後のことであったから、会員にとっては初めての挑戦であった。
私はFAC時代の登山を記録したノートを引っ越しの際に失ってしまったので、細かいこ―とは分からな いが、会員参加者十五人ほどで、横長のキスリングを背負い、興奮しながら上野から金沢行の急行「能登」に乗り込んだ。今から三十年も昔のことだ。私は少し風邪気味であったが、この機姿を逃すことはできないと参箏加した。
早朝富山駅に着き、富山地方電鉄に乗り換え上市へ、そこからバスで馬場島に。天気は雨であった。早月尾根を一列になって登り始める。雨の湿気と汗で、蒸し蒸しとして辛かった。
そこえ虻の襲来である。手で払いのけながら、首を振りながら、雨具のなかでグショグショになっていた。微熱もあり、鬘s当な体調ではなかったと記憶しているが、それでも夕刻早月小屋に着いた。早月尾根の唯一ひらたい場所がこの小屋のある処だった。
この当時、伝蔵小屋は休業していたと思う。我々は避難小屋に泊まることになった。雨は一日降り続いていたので、テントを張らないだけでも助かった。私の記憶するこの記〈薄すべき山行の思い出は、この初日の夜にあった。荷物を下ろし、泊まりの準備に取りかかる。食事の支度となって「水」。「水」がない。
避難小屋の脇に雨水を貯めてあるドラムカンを覗きこむと水がない。底の方に泥水が溜まっているのであった。
コッヘルを外に出して雨水を集めてくれ」
「その泥水なんとかならないか」
「手拭いもっていないか」
「どうするんですか」
「手拭いで泥をこすんだよ、沸騰させれば後は使えるから」
「大丈夫ですか、飲めます6..」
みんなの心配をよそに、ランプの灯りのなかで行動帷をする。
コッヘルの上に手拭いを被せて、そこに泥水を上からそおっと流す。手拭いの糸の目から水が落ちてくる。少しは澄んだ水が下に落ちるが、茶色の色が残る。何度も繰り返して水をつくる。「カレーライスだから分からな臺いよ、気にしない気にしない」
などと言い合い鞍がら賑やかであった。私は疲れた体調の性もあって、面白く眺めているだけだ。
この水無し騒動の翌日は天気も回復し、早朝出発。行動中の水をどう確保したのかは記憶にないが、二千五百メートルの森林限界を越えたときは嬉しかったことを覚えている。早月尾根はともかく一直線に剣岳に突き上げていて、森林限界を越えるまでは、なかなか眺望がえられず、黙々と歩いたような気がする。
森林限界を越えたとたんに、天上が開いたようで、気分がホッとしたことが印象的であった。そこから先は本格的なアルペン的な領域になっていた。そして岩場を越えて、ひよこっと山頂にたどりついた。
直接頂上に出るというのは、槍ヶ岳の北鎌尾根がもっとも印象的で、いきなり天に向かって立つという感情をあたえる。この剣岳もその感はある。小さな祠にお参りして無事を祈る。
初めて剣岳の山頂に立った時、周囲は雲に覆われていて、四方を征してというような光景ではなかったと思う。まじかに見た八シ峰は、そのギザギザに尖った岩の連なりが迫力一をもって迫ついた。剣沢にベースキャンプをおいて、八シ峰の各ルートを登った。数日後、私も長次郎のコルからハツ峰に取り付いた。
抱き廻り巖を越えて友を待つ岳蝶のとぶ深鐵の上 岩城正春
長次郎雪渓をつめて、五・六のコルに取り付いて八シ峰を縦走して剣の山頂に立った。紺碧の空の下、気分は最一滝クレオパトラニードルの特徴ある岩やチンネは印象にある。 そして翌年も剣岳の合宿で、剣岳の頂に立ったはずなのだが、いま明確な記憶がない。その二度目の合宿は、体調を壊してテント番をしていたと思う。快晴の剣沢で岩の上で日光浴をしていた。お汁粉を食べたと思う。前年の合宿の時に食べられなかったのを、テント番の時にこっそり実現させたのだ。どんなコースを攻めたかなどというよりも、そんな記憶しか残っていないのだから、お恥ずかしい。この紀行文を書き初めて、若い日々に踏んだ剣岳からの眺望が、少しづつ鑿えってきた。八ツ峰を登禁したときのあの澄みきった青空は美しかった。そして岩が穂高の滝谷の暗い雰囲気と異なって、明るくヨーロッパアルプスの岩場のような感じがした。三の窓、池の平山、八シ峰からの眺めである。池ノ谷の深い切れ込みを上から覗いた。剣岳の頂には、その後三十年間以上、立っていないのだ。九十年の夏に妻と一緒に黒百合のコルまで行ったが、前日の低気圧の通過の影響が残っていて、山頂を渡る雲が飛ぶように早いので、登頂を断念した思い出がある。
湧きあがる雲迅くしてたちまちに視界にあらず大き剣岳 岩城正春
剣嶽八シ峰岩峰にたまきはる胸躍すれわが老いにける 柳瀬留治
いまから思えば私も若かった。その青春の一歩をこの剣岳に記すことができた。いずれまた早月尾根から剣岳に登るであろう。この北アルプス北部の大縦走が、三十年前から始一まっていたとすれば、私の山への想いは綿々として持ち続けられていたことを表わすことになる。ただ唯一残念なことは、剣岳が測量の結果、三千メートルの山でなくなってしまったのが、確かこの時期のことだったように記憶している。
1968年8月
剣岳南壁Å2稜 8月12日 快晴
パーティ L雨宮 軍司
平蔵谷の上部に落ち込んだ南壁は数本のルンゼと稜により構成された岩壁で南面に位置するためか非常に明るく登攀を開始しようとする我々に楽しい岩登りを約束してくれる。
(FACの会報に記載あり)
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