野山登山と長岡京歴史ハイク


- GPS
- 07:30
- 距離
- 20.8km
- 登り
- 297m
- 下り
- 300m
コースタイム
- 山行
- 5:14
- 休憩
- 2:17
- 合計
- 7:31
天候 | 晴れ後曇り一時小雨 |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2024年12月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
電車
下山口:JR京都線向日町駅 |
コース状況/ 危険箇所等 |
野山山域以外は街中歩き |
写真
感想
年末の寒波が日本列島を襲い、日本海側では大雪となっている。太平洋側では晴れてハイキング日和、長岡京駅東口を出発し直ぐ近くの神足(こうたり)神社に立ち寄った。JR長岡京駅は平成7年までは「神足駅」を名乗っていた。此の辺りは嘗て乙訓郡新神足村だった歴史がある。神足神社の境内にはこれから向かう勝竜寺城の土塁・空堀跡がありしっかり保存されていた。勝竜寺城址は、14世紀に細川氏が築いたとされる城で櫓や堀が整備され城跡へ入ることができるがこの日は年末年始の休業で門が閉ざされていた。
南に進むと長岡第三中学校の南に恵解山(いげのやま)古墳ある。全長128mの前方後円墳で多くの鉄製武具が発掘された。後円部は現代の墓地になりそれ以外の部分は平成20年代に整備されたようだ。サントリービール工場の南には境野古墳1号墳がある。ここも上部が墓地になっていた。傍らの案内板には山崎の合戦の際明智光秀が本陣を置いた場所とされている。恵解山古墳と合わせてこの陣地築造の為に明智光秀によって一部壊されたようだ。大山崎町に入り大山崎ICの北側から京都縦貫道の高架に沿って北上した。小泉川堤防から天王山(270m)が見られ、いつもと違った角度が新鮮だった。此の辺りは山崎の合戦の戦場となった処で羽柴勢に天王山を先に占拠され明智勢は不利な戦いを強いられ大きな敗因となったようだ。
持っていた地形図は古くて現実と大きく乖離し西山天王山駅では折角踏切を渡ったのにまた東側に出てしまい戸惑った。丹波街道を北上し長岡天満宮を目指し南側から入ろうと目論んだが工事中で少し戻る形になってしまった。境内はすっかり迎春準備が整い3日後の元旦を迎えるばかりになっていた。当初の予定通りM岡さんとA哲さんがパーティを離脱し以後8名での山行となった。府道10号線が徐々に山手に向かい長法寺南谷に達すると登録有形文化財となっている「田村家住宅離れ」があった。大正時代に建てられた鈴木医院でガラス窓の多い建物で現在は非住。
長法寺北畠には長法寺七ッ塚古墳1号墳があり、畑の中に小さな方墳で名の如く7つの古墳があるようだが、住宅の敷地内にあったりして3号、4号は消滅しているそうだ。光明寺は西山浄土宗総本山の古刹で緩やかな参道階段を登り本堂である御影堂に到った。西山へ取付くべく南への道を探すが西山短大などがあり見当たらず、もみじ参道を下り振出しに戻って林道を進んだ。光明寺で昼食を取ろうとしたが境内は飲食禁止で林道途中にある溜池の畔で休憩した。西山登山口は子守勝手神社の裏手にあり、確りした道が山頂まで続いていた。テープが数多く巻かれ間違うことなく山頂に導いてくれた。
西山(230m)山頂には、小さな山名プレートと3等三角点「粟生1」があり小広い、展望はなく複雑な稜線を辿り遊友の丘を目指して西へと進んだ。道は無きものと覚悟していたが踏み跡の確りした道が続き指導標まで設置されていた。光明寺へ下る道と分れ稜線伝いに送電鉄塔のある遊友の丘(230m’)に達した。鉄塔の恩恵か展望が開け送電線の先に比叡山(848m)、北に小塩山(642m)、西に釈迦ヶ岳(631m)を見ることができた。北西に進むと長岡京市と京都市の境界があり京都市に入るとP224に到った。特に何もないが黄色テープに「224」と書かれピークを誇示していた。北尾根を進み明瞭な尾根を辿ると何時しか林道となり手入れされた竹林の中を大原野上羽の里に出た。
大原野の田園地帯を歩き、芝古墳を目指すが此の辺りも地形図から現実は進化を遂げ役に立たない。スマホのgoogleマップを見て辿り着いた処は一見砂山のように見える6世紀に築造された全長32.3mの前方後円墳だった。京都市の案内板に令和6年3月の日付があり今年整備が完了したようだ。直ぐ近くには井ノ内車塚古墳があるが此方は再び長岡京市、全長39mの前方後円墳で6世紀の築造、前方部、後円部ともに崩されて痛々しい。井ノ内南内畑の吉峰道沿いにある角宮神社には今が盛りのような紅葉があり立ち寄った。小畠川を渡り向日丘陵の南端から西側を北上し裏側の急斜面に付けられた階段を登り向日神社に到った。神社裏手で山茶花が見事に咲き楓もまだ頑張っていた。神社北側の勝山公園内に元稲荷古墳がある。全長94mの前方後円墳で3世紀後半の築造とされている。築造当時は向日丘陵の先端部に威容を放っていただろう。被葬者は相当な権力者であったようだ。
山を下り府道67号線に出ると角に須田家住宅がある。京都府の有形文化財に指定された築300年近い建物で嘗ては松葉屋の屋号で醤油を作っていたそうだ。また角の石碑には、「左・丹波道、中・愛宕道、右・西国街道」の江戸期の古道名が記されていた。大極殿に向かう曲がり角に石碑があり「旅籠富永屋跡」と記されていた。鶏冠井町大極殿に到るとその地名が示すように、長岡京大極殿跡で大極殿公園は用地買収で徐々に広がっている。公園内には柱跡の位置が標され、発掘された礎石が展示されていた。大極殿のあった部分の用地は大部分買収されたようでそのうち建物が再建されるのではと期待が膨らむ。なお長岡京の中心部である大極殿は向日市に位置しいい処だけ持って行かれているようだ。長い歴史ハイクも此処で終了し、阪急東向日駅付近に到り解散した。
コメント
この記録に関連する登山ルート
この場所を通る登山ルートは、まだ登録されていません。
ルートを登録する
いいねした人
コメントを書く
ヤマレコにユーザー登録いただき、ログインしていただくことによって、コメントが書けるようになります。ヤマレコにユーザ登録する