記録ID: 7537172
全員に公開
無雪期ピークハント/縦走
葛城高原・二上山
葛城二十八宿経塚巡行【復刻版】櫛羅から葛城山天神ノ森。持尾道はおまけ
2016年09月27日(火) [日帰り]


体力度
3
日帰りが可能
- GPS
- 08:05
- 距離
- 14.8km
- 登り
- 1,070m
- 下り
- 1,103m
コースタイム
日帰り
- 山行
- 5:53
- 休憩
- 2:13
- 合計
- 8:06
距離 14.8km
登り 1,070m
下り 1,103m
8:54
32分
スタート地点
17:00
ゴール地点
久しぶりに葛城山。
葛城二十八宿経塚巡行では、金剛山を関屋道で降りて小田和地蔵、その後は櫛羅経塚(猿女の地蔵か地蔵寺の経塚)をお参りし、新庄まで行っている。なんで葛城山に登らないのか分からないが、登山中には櫛羅の滝、山頂付近には天神社、不動堂、役行者堂があって行所となっている。そこにお参りする。
その後は、ダイトレを持尾辻まで行き、持尾の磐船神社にお参りする。葛城二十八宿経塚巡行は離れるのだが、平石の磐船神社に行った時、持尾にも同名の神社があると分かったので、これは行っとかないと。
■コースタイム
8:54 猿女橋
9:04 分岐
9:10 流不動明王
9:20 ロープウエイ駅、不動寺■見学休憩 9:46
9:57 櫛羅の滝■休憩 10:08
10:13 No.2旧道分岐
10:15 ロープウエイ下
10:28 No.3
10:40 コンター540付近■休憩 10:50
10:53 不動の滝分岐、No.4
10:58 不動の滝ガレ場
11:05 No.5
11:12 640m付近の谷水
11:15 No.6
11:21 橋崩落
11:24 No.7
11:25 谷を2回渡る
11:30 730mテラス■休憩 11:40
11:50 No.8
12:00 No.9 29町石
12:10 天神社■見学休憩 12:28
--------------------
12:40 ロッジ■昼食休憩 13:05
13:07 山頂■休憩 13:26
13:30 キャンプ場
13:35 弘川寺道
13:47 北尾根コース
13:59 忍海駅コース
14:10 山麓公園コース
14:16 トイレ
14:22 新庄駅コース
14:30 持尾辻■休憩 14:43
----------------------
14:46 水平道合流
14:50 道不明瞭、1mほど斜面を上がる
14:52 尾根にのる
15:00 最初の「火の用心」
15:03 松林
15:23 P425直下■休憩 15:35
15:40 道路工事
15:42 乗越し
15:50 ゲート、コンター300付近
15:55 神社裏三叉路
16:00 磐船神社■見学休憩 16:30
16:34 真念寺
16:55 滝谷口BS
----------------------------------------------------------------------------
■対応する元記事
https://stellabyhydra.blog.fc2.com/blog-entry-318.html
https://stellabyhydra.blog.fc2.com/blog-entry-320.html
https://stellabyhydra.blog.fc2.com/blog-entry-319.html
■関連記事
https://yamap.com/activities/7682347
葛城二十八宿経塚巡行では、金剛山を関屋道で降りて小田和地蔵、その後は櫛羅経塚(猿女の地蔵か地蔵寺の経塚)をお参りし、新庄まで行っている。なんで葛城山に登らないのか分からないが、登山中には櫛羅の滝、山頂付近には天神社、不動堂、役行者堂があって行所となっている。そこにお参りする。
その後は、ダイトレを持尾辻まで行き、持尾の磐船神社にお参りする。葛城二十八宿経塚巡行は離れるのだが、平石の磐船神社に行った時、持尾にも同名の神社があると分かったので、これは行っとかないと。
■コースタイム
8:54 猿女橋
9:04 分岐
9:10 流不動明王
9:20 ロープウエイ駅、不動寺■見学休憩 9:46
9:57 櫛羅の滝■休憩 10:08
10:13 No.2旧道分岐
10:15 ロープウエイ下
10:28 No.3
10:40 コンター540付近■休憩 10:50
10:53 不動の滝分岐、No.4
10:58 不動の滝ガレ場
11:05 No.5
11:12 640m付近の谷水
11:15 No.6
11:21 橋崩落
11:24 No.7
11:25 谷を2回渡る
11:30 730mテラス■休憩 11:40
11:50 No.8
12:00 No.9 29町石
12:10 天神社■見学休憩 12:28
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12:40 ロッジ■昼食休憩 13:05
13:07 山頂■休憩 13:26
13:30 キャンプ場
13:35 弘川寺道
13:47 北尾根コース
13:59 忍海駅コース
14:10 山麓公園コース
14:16 トイレ
14:22 新庄駅コース
14:30 持尾辻■休憩 14:43
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14:46 水平道合流
14:50 道不明瞭、1mほど斜面を上がる
14:52 尾根にのる
15:00 最初の「火の用心」
15:03 松林
15:23 P425直下■休憩 15:35
15:40 道路工事
15:42 乗越し
15:50 ゲート、コンター300付近
15:55 神社裏三叉路
16:00 磐船神社■見学休憩 16:30
16:34 真念寺
16:55 滝谷口BS
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■対応する元記事
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過去天気図(気象庁) | 2016年09月の天気図 |
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アクセス |
写真
葛城山ロープウエイ登山口行きのバスを猿女橋で降りた。まずは流不動明王にお参りしようとしているのだ。
8:45、歩きはじめる・・・・が、結構な坂道だ。最初は涼しかったがすぐに汗が噴き出てきた。
8:45、歩きはじめる・・・・が、結構な坂道だ。最初は涼しかったがすぐに汗が噴き出てきた。
今回は、雩願の鳥居は行かずに順路通りに歩く。結構急な坂道を登ると流不動明王と櫛羅町石。ツバキ葛城荘のすぐ下手で、ロープウエイ駅から下ったほうが早そうだった!民家の小屋のようなところに流不動明王がお祀りされており、脇には町石がある。
流不動明王と櫛羅町石
流不動明王と櫛羅町石
この不動石像は、その前を流れる安位川の改修時に川底から発見されたもので上流(櫛羅の滝方面から)流されて来たとされ、おそらく山腹の安位寺との関係が深いものであろう。
http://urano.org/kankou/katuragi/katura02.html#kujira
http://www.asukanet.gr.jp/katuragi/gose.html
http://urano.org/kankou/katuragi/katura02.html#kujira
http://www.asukanet.gr.jp/katuragi/gose.html
流不動明王からロープウエイ駅はすぐだった。やたら暑いのでまずは一服。そのまん前に不動寺はある。
そもそも論だが、今の葛城山は、古くは「戒那山」またの名を「篠峰」とも称し、役行者の初会の修行の地として多数の行者が登山修練した。
櫛羅滝の上方(行者の滝北方とも)にあった古代の山岳寺院で、戒那千坊(戒那千軒)といわれ、たいそう栄えた。戒那山と号し、別称を堺那寺(戒那寺)という。不動寺はその堺那寺の流れを汲むお寺だ。途中、宗派換えをしているが・・・
詳しくは。奈良文化財研究所飛鳥資料館倶楽部のサイト・不動寺縁起
http://www.asukanet.gr.jp/katuragi/gose.html
そもそも論だが、今の葛城山は、古くは「戒那山」またの名を「篠峰」とも称し、役行者の初会の修行の地として多数の行者が登山修練した。
櫛羅滝の上方(行者の滝北方とも)にあった古代の山岳寺院で、戒那千坊(戒那千軒)といわれ、たいそう栄えた。戒那山と号し、別称を堺那寺(戒那寺)という。不動寺はその堺那寺の流れを汲むお寺だ。途中、宗派換えをしているが・・・
詳しくは。奈良文化財研究所飛鳥資料館倶楽部のサイト・不動寺縁起
http://www.asukanet.gr.jp/katuragi/gose.html
不動寺から安位川沿いに葛城山へ登る途中に二つの滝がある。一つ目(下)が、「尼ヶ滝」(今は櫛羅の滝)、二つ目(上)が「行者の滝」(今は二の滝)と呼んでいる。役行者が下の滝で修行していたが、母が一緒に修行しようとしたので、この滝行場を母に譲ったことから、尼ヶ滝、行者の滝という名が付けられたという。まずは、櫛羅の滝だ。
数組の登山者に追いついたが、また別の数組に追い抜かれた。しばらく登って540mあたりで、階段登りがいやになって休憩した(10:40〜10:50)。
先行するおじさんもバテバテのようだ。ちょうど下ってきた人のいうのには「ここが一番きついんよ。すぐ上からはゆるなる」ということだった。
先行するおじさんもバテバテのようだ。ちょうど下ってきた人のいうのには「ここが一番きついんよ。すぐ上からはゆるなる」ということだった。
せっかくなので、行者の滝を見に行く。平坦なトラバース道を4、5分歩くと土砂崩れ!なぎ倒された樹木にまだ緑の葉がついているので、最近の土砂崩れらしい。
地図をみると、ここからキックターンして、下っていき、再度ターンして、この土砂崩れも末端あたりに降りていくようだが、これは無理。無理して、土砂のところを滑り降りられそうだが、そんな無理はやめておこう。だ。
地図をみると、ここからキックターンして、下っていき、再度ターンして、この土砂崩れも末端あたりに降りていくようだが、これは無理。無理して、土砂のところを滑り降りられそうだが、そんな無理はやめておこう。だ。
11:30、730m付近。かなりひろい台地状になっている。界那千坊の地は多分行者の滝の北の尾根にある平坦な所だと思うのだが、そこも多分こんな場所なのだろう。「・・・千坊」なので、このあたりの平坦地にも支坊があったのかも知れない。のテラス。
12:00、9合目に到達。ここには道標兼町石2つがあった。
左 竜王宮 廿九丁 右 天神宮 廿九丁
ここでルートは北東に折れ曲がるが、右手は北東、左手は婿洗の池方向で西。竜王宮は婿洗の池付近にあったことが分かる。
左 竜王宮 廿九丁 右 天神宮 廿九丁
ここでルートは北東に折れ曲がるが、右手は北東、左手は婿洗の池方向で西。竜王宮は婿洗の池付近にあったことが分かる。
またこんなことを・・・
祭神は国常立命はいいでしょう。天神の森として祭祀が行われたもいいでしょう。加茂氏の祖が加茂建角身命ですと!?それは違うやろ。
加茂建角身命は賀茂建角身命とか鴨建角身命とも書く。山城の賀茂氏(賀茂県主)の始祖と限定的に理解しよう。この表現では誤解をまきちらす。
一般的な理解(山城国風土記逸文)によれば・・・・・・・
(賀茂建角身命は)大倭の葛木山の峰に宿っておいでになり、神武東遷に際しては、八咫烏に化身して天皇を先導した。神武天皇の亡き後は山代の国の岡田の賀茂に至り、最終的には、葛野河(高野川)と賀茂河(鴨川)が合流する地点(下鴨神社がある)に鎮まった。
そこから、賀茂川を見渡して「この川は狭く小さくはあるけどもも石川の清川ではある」とて「石川の瀬見の小川」というフレーズができたり、下鴨神社のそばにある御手洗池から、みたらし団子という名ができたり・・・という話になってくるのである。
賀茂探求サイト:http://www.ffortune.net/spirit/zinzya/kami/kamotake.htm
によると
「賀茂氏(山城賀茂、岡田賀茂氏)は実際には雄略帝の頃に葛城山の勢力を倒して、代わりにここに入ったものと推定されている。そして後に大和朝廷が奈良盆地の北の方へ勢力を広げ始めると交通の要所である岡田に展開し、雄略帝以降に降、賀茂一族が鴨川、秦一族が桂川沿いに展開して、このふたつの氏族で京都の開拓を始めたという。」
昔、葛城古道歩きで高鴨神社を訪れた時に、同じような記述があって(主語があいまいながら、アジスキタカヒコネ命が八咫鳥として武勲を立てられたと書いてあった)、それ以前は神社の由緒に「鴨族の祖先の八咫鳥」と書いてあって、「それは違うぞ」とサイト主からたしなめられたり、「鴨族の祖先の八咫鳥」とそのまま引用したサイトに、子孫の方から「それはちがう」とクレームがあったりと、ちょっとした事件もあったようだ。
http://dokodemo-sanpo.cocolog-nifty.com/walkin/katuragi3.html
それと同じ状況がまだ残っている。
ちゃんとした理解をしておこう。
祭神は国常立命はいいでしょう。天神の森として祭祀が行われたもいいでしょう。加茂氏の祖が加茂建角身命ですと!?それは違うやろ。
加茂建角身命は賀茂建角身命とか鴨建角身命とも書く。山城の賀茂氏(賀茂県主)の始祖と限定的に理解しよう。この表現では誤解をまきちらす。
一般的な理解(山城国風土記逸文)によれば・・・・・・・
(賀茂建角身命は)大倭の葛木山の峰に宿っておいでになり、神武東遷に際しては、八咫烏に化身して天皇を先導した。神武天皇の亡き後は山代の国の岡田の賀茂に至り、最終的には、葛野河(高野川)と賀茂河(鴨川)が合流する地点(下鴨神社がある)に鎮まった。
そこから、賀茂川を見渡して「この川は狭く小さくはあるけどもも石川の清川ではある」とて「石川の瀬見の小川」というフレーズができたり、下鴨神社のそばにある御手洗池から、みたらし団子という名ができたり・・・という話になってくるのである。
賀茂探求サイト:http://www.ffortune.net/spirit/zinzya/kami/kamotake.htm
によると
「賀茂氏(山城賀茂、岡田賀茂氏)は実際には雄略帝の頃に葛城山の勢力を倒して、代わりにここに入ったものと推定されている。そして後に大和朝廷が奈良盆地の北の方へ勢力を広げ始めると交通の要所である岡田に展開し、雄略帝以降に降、賀茂一族が鴨川、秦一族が桂川沿いに展開して、このふたつの氏族で京都の開拓を始めたという。」
昔、葛城古道歩きで高鴨神社を訪れた時に、同じような記述があって(主語があいまいながら、アジスキタカヒコネ命が八咫鳥として武勲を立てられたと書いてあった)、それ以前は神社の由緒に「鴨族の祖先の八咫鳥」と書いてあって、「それは違うぞ」とサイト主からたしなめられたり、「鴨族の祖先の八咫鳥」とそのまま引用したサイトに、子孫の方から「それはちがう」とクレームがあったりと、ちょっとした事件もあったようだ。
http://dokodemo-sanpo.cocolog-nifty.com/walkin/katuragi3.html
それと同じ状況がまだ残っている。
ちゃんとした理解をしておこう。
葛城天神社には、水波能売神(みずはのめのかみ)を祀る竜王社が祀られている。水の神様、水をもたらすだけでなく、暴れ水を食い止める祈も含まれているだろう。登りで見てきたようにしょっちゅう土砂崩れの起こる谷だ。麓にある六地蔵の大岩も、大雨で上流から運ばれてきたものというくらいだ。
櫛羅の里人が天神講を作り祭礼をしている。表の標柱にある通りだ。春の大祭、5月5日には吉祥草寺の山伏による護摩供が行われる。
http://koza5555.exblog.jp/tags/%E8%91%9B%E5%9F%8E%E5%A4%A9%E7%A5%9E%E7%A4%BE/
櫛羅の里人が天神講を作り祭礼をしている。表の標柱にある通りだ。春の大祭、5月5日には吉祥草寺の山伏による護摩供が行われる。
http://koza5555.exblog.jp/tags/%E8%91%9B%E5%9F%8E%E5%A4%A9%E7%A5%9E%E7%A4%BE/
天神ノ森
いにしえからこの地はブナの巨木が被い茂る森として、神聖にして侵すべからざる所として里人に守られてきた。古代祭祀の遺跡でもある。自然の恵みを守る聖地・聖域である。これが、金剛山に対する葛城山のコンセプトにならないかな。
いにしえからこの地はブナの巨木が被い茂る森として、神聖にして侵すべからざる所として里人に守られてきた。古代祭祀の遺跡でもある。自然の恵みを守る聖地・聖域である。これが、金剛山に対する葛城山のコンセプトにならないかな。
葛城山頂に向かう、山頂というより白樺食堂。今日は食堂でご飯を食べる。
ところで、旧ダイヤモンドトレールとは何かな?コース変えでもあったんだろうか?よく知らない。なにしろ葛城山は昭和42年以来だ。
ところで、旧ダイヤモンドトレールとは何かな?コース変えでもあったんだろうか?よく知らない。なにしろ葛城山は昭和42年以来だ。
■ダイトレ巡行
これから持尾辻までダイトレをゆく。
ちょっと予定より1時間ほど遅れているが、まあなんとかなるだろう。
13:30、キャンプ場を下見しておく。金剛山の方が魅力的だが、実際は寝るだけなので全く問題はないだろう。料金が高め?
これから持尾辻までダイトレをゆく。
ちょっと予定より1時間ほど遅れているが、まあなんとかなるだろう。
13:30、キャンプ場を下見しておく。金剛山の方が魅力的だが、実際は寝るだけなので全く問題はないだろう。料金が高め?
持尾辻の西側の谷を降りてゆく。持尾辻や持尾道という固有名詞がついているところを見ると、かなり使い込まれた古道らしいが、この谷道はそうでもない。おかしいと思って後で調べてみると、昭和6年修正の国土地理院1/25000図を今昔マップでみると、持尾から登ってくる破線路はもう少し北の布施城趾からくる道に接続しているのだった。もしかして、そこが本来の持尾辻か。
14:50、小さな尾根を回りきって少し下ったあたりから道が不明瞭になってきた。山と高原地図でガレと書いたあたりか。ただし、今までは谷を降りるような道ではなかったし、ガレ場の様子もなかった。データのメンテしてないな。
14:52、一ヶ所だけ、樹木の根もとを1mほど上がって巻いていくところがあった。普通の山道ではよくあるケースだ。ちゃんと踏みあともテープもあるので実際に現場に行ってみたらすぐ分かるだろう。写真はそこを通過して、振り返ったところ。
近くの脇にあった空き地に入ってみると、すばらしい「野」。山を降りて里に入った感が強くなる。
森 浩一さんの「日本の深層文化」という本を読んでいると、同じような野原でも、海に近いほうを「原」、遠ざかると「野」と言ったようだ(石津原と百舌鳥野の位置関係)。
さらに、田畑−野−山林と遷移していき、それぞれ違う豊かさを人間にもたらしてくれる。その違いを捉えていけば、稲作文化中心に捉えていた日本の深層文化はあたらしい姿を見せてくれる、とあった。それ以来、野の写真を集めてはいるが、今はもうなくなっていそうなのだ。
森 浩一さんの「日本の深層文化」という本を読んでいると、同じような野原でも、海に近いほうを「原」、遠ざかると「野」と言ったようだ(石津原と百舌鳥野の位置関係)。
さらに、田畑−野−山林と遷移していき、それぞれ違う豊かさを人間にもたらしてくれる。その違いを捉えていけば、稲作文化中心に捉えていた日本の深層文化はあたらしい姿を見せてくれる、とあった。それ以来、野の写真を集めてはいるが、今はもうなくなっていそうなのだ。
本殿と、横にある石祠。これがなにか分からない。
説明板も何もないので、帰宅後調べてみると、平石の磐船神社の分社らしい。持尾から平石の磐船神社まで遠いので、分社を作ってもらったという談話が載っていた。そんなに古い話ではないようだ。分社なので、祭神は天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊だろう。ただし、こちらの方にはイワクラは見当たらなかった。
説明板も何もないので、帰宅後調べてみると、平石の磐船神社の分社らしい。持尾から平石の磐船神社まで遠いので、分社を作ってもらったという談話が載っていた。そんなに古い話ではないようだ。分社なので、祭神は天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊だろう。ただし、こちらの方にはイワクラは見当たらなかった。
付近をうろうろ探してみた。水道タンクの裏には祠が2つあった。
手前のほうには大きな石が安置され、「大威徳明王」と彫ってあった。このうち「威」なのか、「成」なのかが読めないのだが、「大成徳明王」なんて知らないので、大威徳明王とした。
手前のほうには大きな石が安置され、「大威徳明王」と彫ってあった。このうち「威」なのか、「成」なのかが読めないのだが、「大成徳明王」なんて知らないので、大威徳明王とした。
これは何かな?物部麁鹿火さんのブログによると、庚申さんらしい。
http://mononobenoarakai.cocolog-nifty.com/blog/2014/06/post-bbf8.html
http://mononobenoarakai.cocolog-nifty.com/blog/2014/06/post-bbf8.html
撮影機器:
感想
葛城山は観光地やね。別に観光地が悪いわけではないが、コンセプトはどうなっているんだろうと思う。ロープウエイ、トイレ、自販機、売店はもとよりレストラン、ロッジもあるし、キャンプもできる。至れり尽くせりといえばその通りで、安心して登山ができる。人気もあって、5月のツツジシーズンなどは、USJ並みの混雑ではないか。
お隣の金剛山と比べると、ちょっと性格が違う。あちらは通年ではもっと人出が多いが、「信仰」というのが柱にあり、観光地並に人出があってもそれを崩してはいない。対して、こちらは観光地やなあと思う。柱の希薄、そういう意味では六甲山に似ているかも?「信仰」に代わる柱は、やはり「自然」ではないかと思う。「自然研究路」は整備されているが、「研究」せえと言われてもねえ。せっかく「天神ノ森」という伝統があるんだから、それを媒介に、自然と人の暮らしがすっと入ってくる構想はないものかと思ったりする。 持尾磐船神社は分社ということであまり特徴もなかったが、持尾辻からの古道はなかなかのものだった。一見、どこにでもあるような里山の道であったが、記憶に残る道だった。多分、野や山林の中を通っている道が持尾の人々によって使われ、維持されていて、その造作に持尾ならではの手作り感覚が残っていてヨソにはない味を出しているのではないか?そのように思った次第である。
季節を変えてもう一度歩いてみたい道だった。
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