厳冬の知床岳55年前に単独20日間の往復登頂


- GPS
- 416:00
- 距離
- 116km
- 登り
- 3,860m
- 下り
- 3,844m
コースタイム
下り5日間
アクセス |
利用交通機関:
電車 バス
|
---|
感想
厳冬の知床岳
立田実 昭和32年(1957年)1月25日〜2月15日
(クラブの大先輩立田実さん1937=1982 の19歳のときの、冬の知床の壮大な単独行の記録です。縁あって、先輩が亡くなった30年ほど前に、追悼集の編集をして、この記録などをまとめました。今顧みて、やっぱり相当な記録で、詳細に転載したくなりました。ルート図も書き入れました。同年代は谷川岳一ノ倉沢の初登攀をした、南さん、松本さん、大野さんその他の面々ですが、その誰よりも、立田さんの冒険はすごかったのだと思います。
文中のカッコ内は、分かり易くするために、私が整理したものです)
(1月28日 一日目
曇り 斜里=知布〜オチカバケ)
ふわーっと粉雪に撫でられながら、橇から降りた。
寒々とした、北国だ。昨日網走から、釧網線にて斜里に降り、ガスの中の斜里岳を見たとき、何か無性に寂しく、来るところまできたという感じがした。何かに追われるような気持ちで「陸の孤島」知床に来たが、これから先、氷と雪と岩と風の、半島の海岸線を、約70キロ歩まねばならない。
この知床半島へは、今回を入れて登山として三回、旅行として二回来ているから、道内の他の地より不便ではあるが、私にはなじみ深く、懐かしかった。昔私も北の旅は、樺太敷香(しすか=現・サハリンのボロナイスク)の多来加湖(たらいかこ)畔まで行ったが、冬の北の山に単身向かう心中は、自分にも分からなかった。なぜか重い溜息をついた。
東朱円の部落で、子供たちが私を憐れむように見送っていた。胸のつまる思いの内に、知布(ちっぷ)で最後の乗り物とも別れるのだ。これから先は一人スキーぐるみ13貫(48キロ)の荷と共に歩かなければならない。知布で老人が泊って行けと何度も言ったが、自分の心中に逆らって、第一歩を記した。積雪は1m以下で、一寸(3センチ)〜一尺(30センチ)ほど潜ったが、粉雪のためそれほど苦しいラッセルではなかった。ワカンを履き、一歩一歩ふかふかと処女雪に示す跡は、断頭台に向かう者を思わせるような重い重い足跡だ。海岸線を歩きながら振り返ると、森林の間に海別岳が赤みがかった山頂に、雪煙を上げて、白く白く座している。オホーツク海の流氷を渡って吹く風が波を立てて、雪を舞い上げ、身を切るように激しく泣き叫び、怒り荒れ立って私に迫る。オチカバケを少し過ぎたところで、星もない真っ暗な最初の一夜を風と共に明かす。
(1月29日 二日目
晴れ オチカバケ〜オショコマナイ)
風は時々吹いていたが、雲はなくわりに穏やかだし、またタンネ(シラビソ)や白樺を通して、時折見える遠音別(おんねべつ)岳も、風と動く岳樺と一緒に、手招いているようだ。オショオマブ、金山川と延々と続く海岸線をいく。真鯉沢を過ぎた頃から、オホーツク海が晴れ上がってきた。果てしない広い海、流氷が遠く遠く水平線の彼方まで、帯状に広がっている。悲しいまでに慄然としている。心の中に針を刺されるような感じで、厳しい景色に打たれ、黙ってこの自然を見つめた。さらに遠音別川、シャリキ川と、海を見ながら進む。遠音別岳もだいぶ近くなり、美しいなだらかな山頂付近が、それと指摘できた。オペケペ川を渡り、チブスケに入る。ここで6尺(180センチ)の竹スキーを履く。シールが新しいせいか、森林帯をわりに快適に登る。チャラッセナイを渡ってすぐ、右に高度を上げ、オシンコ崎を巻く。バタバタとホキホキしながら、百mくらい登った。登り気味に進んでいくうち、方向が分からなくなってしまったが、一時間ほどで頼りにしてた電線を見つけてホッとする。オショコマナイ川まで緩い上り下りを続ける。足がガクガクになった頃、木々の間にウィンパーを張る。ラジウスの音も消える頃、空には氷のような星が静かに輝いていた。
(1月30日 三日目
風雪 オショコマナイ〜岩宇別)
風雪のため見通しはほとんど利かない。雪の量は多く、風は激しく木立を揺すぶる。海岸線をフンベ、チャシャコッ崎を通って、ウトロに入ろうと思ったが、チャシャコッ原野の道を行く。雪の中を何本ものシュプールを残しながら、風の中をいく。フンベ川を渡る辺りに、伐採の跡があり、こんなときでも働いている人がいるのだなあと感心しながら、何かすまない気がした。チャシャコッ原野の林の中を進む。寂寥とした雪原、広漠たる平原を渡る冷風、開拓農家が雪原の木立の中に煙を上げていた。この半島も昨年襲った北海道の冷害にあい、気の毒にも自然の前に伏したのだ。私はどうにかならないものかと、つくづく考えさせられた。それでも親切にストーブを提供してくれ、色々と持て成してくれた。一人の私にとっては本当に涙が出るほど嬉しかった。
ウトロ山の右、ペレケ川の奥(知西別岳)に夏登った。知西別岳辺りが、風雪の間に見えた。あの大沼の沼辺の湿地帯の可憐な高山植物たちは、この雪や風の中で、どうしているのだろう。今年の夏も花を咲かせるだろうか。などと感傷的になりながら歩む。白樺やタンネの林の上に、雪煙を高く上げて、羅臼岳が半島最高の貫録十分に、幾つかの無名峰を左に伸ばしている。左の斜面を滑り転びしながら、海岸へと出る。ウトロの崎を見ながら、ウトロ部落に入る。
根室側の羅臼に対する部落だけあって、活気があった。部落で二時間ほど暖を取り、礼を述べて風雪の中に出る。部落の外れで姉妹らしい娘が、私をいつまでも見つめていた。彼女らはシューベルトの「冬の旅」の流浪する青年を思い出したのであろうか。言葉を掛けようと思ったがやめた。後ろ髪を引かれる思いで先に進んだ。近くに羅臼岳を見ながら、黙々と海に近い岩の上を歩く。ホロベツ川からの海岸は輝石安山溶岩台地の海蝕によって、百m〜二百mの絶壁が卓絶した景観を示しているため、海岸線は歩けない。幌別の部落を過ぎてスキーに替え、岩宇別原野に入る。粉雪の林の中に乱れたシュプールが、技術と荷の重さを語る。
この開拓農家の人々も親切に泊れと言ったが、明るいからと断ると、可愛い少女が出てきた。一度断ってしまったからやむなく先に進む。考え事をして歩いていると、深い針葉樹林の中に迷ってしまった。がむしゃらに下ったところ、赤ノ川とイワウベツ川の、二股付近に降りてしまった。懐かしい上流の岩宇別温泉に行きたかったが断念する。
伐採の飯場の右手の、急な傾斜を転びながら登っていくと、荒漠とした原野に出た。羅臼岳が硫黄岳までの、無名の三峰と共に、重々と白い姿を連ねていた。雪原の中森林帯をゆっくりと進むうちに暗くなって、海抜二百m近くの雪原に天幕を張る。
(1月31日 四日目
強風曇り 岩宇別〈知床五湖付近〉〜ウブツノシタ)
今日は前日よりも強い風が木々の枝を揺さぶっていた。この樹林帯の中は、スキーでも五寸ほど潜る。一歩一歩進んだ。行く先はまったくの自分の感で進むほかなく、なるたけ海岸に近い方と進み、イタシュベツ川の河口近くに出た。付近にあった夏漁師の番屋で、札幌の友人がくれた貝のくん製をヘゲス。
札幌に着いたとき、友人から北大が日高山脈全山縦走(1956~57北大山岳部の冬季日高全山縦走)をやったと聞いた。東薬大も終わり、早大立大も入るとのこと。私は日高については、夏に八千代から十勝ポロ尻岳、札内岳と、襟裳岬に近い楽古岳しか知らないから、能書きなど言えないが、それほど魅力を感じない。ただ処女性に富んでいるのが強みであろう。
硫黄山が雲の中に不気味に横たわっている。硫黄の流出で有名になった雪に埋もれたカムイワッカ川の海に近くなる。急な滝状の箇所を渡る。下方流氷の押し上げた海岸に、硫黄採取の跡が見えた。海岸線の流氷の上を歩こうとも思ったが、海中に淵となっている。断崖の下の流氷でも割れたらと思い、海岸から百mほどの麓を行く。硫黄山から先は、四百m辺りまで稜線が下がっている。断崖の上を強風によろめきながら行く。ウンメーソ岩を左に見た辺りで、海岸に降りる。波打ち際は流氷が重なり合っているため、少し山よりに行く。昨夏沢中でビバークして遡行(知円別岳方面)した、ウブシノツタ川の河口付近の木の陰に、スコップで一時間ほど、雪面を平らにして天幕を張る。
今日はラジオがよく聞こえたから、夜遅くまで甘酒など作っていた。風はなお強くなり、ウィンパーをバタバタ叩いていた。
(2月1日 五日目
風雪 ウブツノシタ〜テンパンベツ)
朝外に顔を出すと氷片が飛んでくる。風速二十mほどの猛吹雪だ。停滞しようかと思ったが、出発することにした。今山行中の目的は、第一に絶対にロクらないこと。第二に少しくらいイカレても楽しむこと。第三に登頂することである。視界は二十mほどだ。風は狂女のように荒れ、流氷が大きく上下している。体がふらつきながら海岸を行く。呼吸が困難である。ゴーグルなど役に立たない。盲人のごとくさ迷いながらボンベツ川の番屋を過ぎ、ルシャ川を渡り、雪だらけの体でテンパンベツ川の番屋に潜り込む。今日の行程は一里半(6キロ)くらいだった。屋内にウィンパーを張る。濡れたものを乾かしているときも、小屋はガタガタギシギシ動き、隙間から粉雪がビュービュー入ってくる。こんなとき不思議に来てよかったと思った。ルソーが「自然に還れ」と言ったことが、この苦しみの中で痛感された。何か得難いものを得、一歩大人になった気がした。今後の行動をすべて天に任せて計画を立てた。帰りの四日分の食糧を燃料を置いていくことにして、ダブルシュラフに潜る。風は夜通し痛烈に吹いていた。
(2月2日 六日目
曇り テンパンベツ〜無名沢河口〈チャラセナイ川付近〉)
風雪が弱まり出発する。昨日まで氷点下5度〜10度くらいであったが、今日はマイナス16度である。オホーツク海の見通しが利くようになる。流氷が上下しながらゆっくり動いている。新雪の中を胸を膨らませながら進む。チャカバイ川辺りの流氷の上に、アザラシを見つけた。子供のように重い荷も忘れて、走りたいような衝動にかられながら行く。汽車の中で会った親子に見せてやりたいと思った。岩見沢で乗った老母と美しい娘は、私と私の巨大な荷を見て、怪しげに問うた。
老母は、
「内地の人が、何故わざわざそんなところまで行くのですか?」
「山に登るため」
美しい娘は、
「何故山に登るのですか」
この質問は我々岳人が、よくあい返答に困る。彼のマロリーは「頂上がそこにあるから」と言った。私は李伯が詩「山中問答」のなかで、「笑而(しかし)不答心自内」と言っているように、ただ微笑する他に技を持たない。ブッセの「山の彼方の」にあるように、未知の永遠の幸せを求めるためだ。家出娘が都会に憧れるのとは違う。いや同じでもいい。ただこのように山は楽しいのだということを見せてやりたい。
変化の多い海岸線を断崖の下を行く。右の崖から50mほどの滝が、青氷となって素晴らしい。流氷を岸の間に真っ青な水が漂っているところで前進をふさがれ、やむなく少し戻り右の急な登りを上がる。倒れそうになる頃断崖の上に出た。さらに崖の上を進む。鮹岩(たこいわ)を過ぎ、喘ぎながら行くうちに海岸線に出た。振り仰ぐと今まで深いガスの中にあった知床岳が目の前に現れた。すぐに山も海も、全然見渡すことができなくなった。ポトビラベツ川の手前二キロほどの無名沢の河口付近に着く。番屋跡に雪洞を作る。三時間で割に快適なBCができた。スキーをワカンを交代に使用しながら、やっとここまで来た。空模様は完全に悪くなる。
(2月3日 七日目
風雪 停滞)
朝吹雪の中に出て見ると、全然視界は利かない。停滞と決める。サマツキヌプリ(知床岳)は、昨夏根室側から登行したが、ハイマツの海に妨げられて、登頂できずに退散した。それで五月頃来る予定が、今回の山行になったのだ。知床岳(1254m)は千島火山帯の第三紀層のコニーデ火山である。この登頂ができないときは、さらに北のウイヌプリ(652m)を目的とした。二時間ほどの偵察で、この無名沢を少し登り、左の尾根上に天幕を設営し、登頂することにする。ラジオもさっぱり聞こえなくて、早めにシュラフに入る。
(2月4日 八日目
曇り 無名沢河口〜標高5百m)
三時起床、風はだいぶ弱まった。寒さのためじっとしていられない。ビニロン製のウィンパー、シュラフ、スコップ、ラジウス、五日分の食糧を持って、四時真っ暗な外に出る。オーバーシューズの上から、ワカンとアイゼンを付けて、不気味に静まり返った無名沢に入る。雪崩の危険はないとみて、急な沢を5,6貫(20キロ)の荷を背負い、粉雪のラッセルを続ける。二時間ほど行くと棚にぶつかる。青氷が付いていて乗越は難しい。アイスハーケンなど打って越えるにしても、ものすごく時間を食う。さらに上部にも雪に覆われた氷滝があるようだ。すぐ左の尾根に取り付きを開始する。ものすごく急で汗をかくことを避けて、ピッチを上げないためになかなか高度が上がらない。四時間ほど登ったところで、ワカンを外す。
木の枝や根に妨げられて苦労する。風は雪を舞い上げていたが、オホーツク海が下の方に見えた。ラッセルに終始しながらも尾根の雪庇の下に出た、大きなものではなく、適当な個所を慎重に切り落とす。ここの木の枝に赤テープを長く巻いて、雪面に立てる。12時半尾根に出た。さすがに風は強く、吹き飛ばされそうだ。五寸ほど潜るが、ラッセルは楽になってきた。急な登りを一歩一歩ステップを切りながら登り、2時5百m付近に平坦地を見つけ、ブロックを積んでウィンパーを4時張り終える。
(2月5日 九日目
風雪 標高5百m〜9百m)
今日は昨日よりも風が強く、見通しも利かない。気温マイナス18度。この地点から頂上アタックができるかどうか疑問であり、もっと上部に移動させるため、撤収し8時に出発する。風雪の中、髪の毛からも、まつ毛からも真っ白な氷柱が下がり、ピッケルを持つ手がづきづきする。急な斜面をジグザグに登る。十時頃小さなピークを直登できず、左を巻くことにする。下り気味にゆっくり行くと、スリップを起こさないよう、ステップを切り切り進み、ここにも赤テープを付ける。ナイフリッジがしばらく続く。地図上まっすぐな尾根ではあるが、相当曲がっていて小さな枝尾根もいくつかあった。左から吹き上げるオホーツクの風に顔をそむけながら登る。所々ブッシュが出て歩きにくかった。
赤テープ6本目を付けてすぐ、ハング気味の岩の露出した雪面に、行く手を断たれた。一時、この下に天幕を張ることにする。高度9百m付近。敏速に張れるようにとペグなども結びつけておき、その他いろいろと考えておいたが、風雪の中では思うようにならず、泣きたくなった。ブロックにも厚みを加え、雪面を掘った中にウィンパーを張った。
三時、手も足も凍えるばかりだった。夜になって風は酷烈を極め、音を立てて叫んでいた。天幕がグラグラバタバタするために、楽々休むこともできない。風は夜通し吹いていたローソクがバタリと倒れた。
(2月6日 十日目
風雪 停滞)
風は衰える様子を見せない。マイナス14度。今日も停滞とする。ブロックが崩壊しているために外に出た。瞬間風速40mくらいの風だ。死に物狂いで天幕付近のラッセルと、ブロック建てに全力を尽くす。ハングのトレールも頂上も見ることができなかった。アルファ米の調子が悪いのにはアタツイた。一人話す相手もなく、色々幻想にふける。単独の寂しさをつくづく味わう。歌の本も詩の本も身につかず、イカレ歌も一人歌っているのでは面白くなく、やたらだらだらと雑記帳に書く。ハモニカの音も静まる頃、風も弱まってくる。
(2月7日 十一日目
雪 九百m〜頂上往復)
朝暗いうちに起きる。マイナス24度。風は収まり粉雪が時々舞っていた。7時天幕を出発する。右側に見える岳樺の尾根が、上部の方へ緩く続いている。左側はぼんやりと白く見えるだけだ。ハング気味の壁の登攀に取り掛かる。高さ7,8mだ。右側を巻くことは雪庇があるため簡単にはできない。左側も切り立っていて、相当下りながら下の方を通過しなければならないため、必要以上のアルバイトを食うことを考え、乗越すことにする。下部3mほどの急な雪面慎重にステップを切り、ハングの下に着く。右に少しトラバースし左手一杯のリスにロックハーケンを二本打ち、1mほどの二段アブミを付ける。一方のハーケンに体重をかけ、右手のバイルを氷に刺し、強引にアイゼンのままアブミに足を掛ける。振られそうになりながら、さらに目の辺りにハーケン二本を連打する。ミトンの上からは思うように打てず、ハーケン三本落としてしまった。二段アブミを掛けて乗りあがると、顔が上部の急な氷面に出た。手も足も腰も疲れきっていて、氷面にアイスハーケンを三本打つのがやっとだった。
落ちてもロクる心配はないと思ったが、下を見ると足がガタつく。アイスハーケンを握りながら、ステップを切り切り、9時やっと乗越した。ハーケンに赤テープの吹き流しを付ける。これから先は昨日までの烈風によって、表面はウィンドクラストしていて、歩きやすい。知床岳は目の前に見えている。
尾根は幅も割と広く、快適に高度を上げる。寒気のためまつ毛は凍り、外部の露出している毛は、長い氷柱が垂れ下がる。氷柱を取り眼をこすりながら登攀する。11時半、頂上部比較的平坦な、南に開く爆発火口跡らしきものを見る。緩い登りを的確に登り、付近より一段高いところに着いた。
2月7日12時10分、ついに知床岳の頂上に私は立ったのだ。やはり嬉しかった。東京を出てから13日目だった。気温はマイナス30度くらいだろう。西方オホーツク海は、白く地平線上に岬に向かっている。北東方に△1132mを通して、国後島のチャチャヌプリが、ねずみ色に霞んで見える。南方の硫黄山がボリュームのある裾を引き、真っ白に座している。クラストした雪の斜面で、テルモスのミルクココアを飲みながら、ブタ肉と朝鮮ニンジンをヘゲす。1時頂きを後に、クラストした斜面を駆け下り、二時半、ハング岩の上に着く。7ミリの10mザイルを上部のハイマツの幹にダブルに掛け、ハーケンを抜きながら下り、下部2mほどをザイルを持って飛び降りる。3時天幕帰着。私の登頂を祝うかのように、珍しく山々はアーベントグリューエンに輝いていた。
(2月8日 十二日目
下山)
翌朝はマイナス27度を示した。帰路も行きの道を戻る。BC、BC休養、ボンベツ、ウトロ、東朱円と、15日に斜里から弟子屈温泉に着く。この後十日ほど、阿寒の友人宅に遊ぶ。ウトロ部落で、満十九歳の誕生日を一人ささやかに祝った。(終わり)
コメント
この記録に関連する登山ルート
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元東京緑山岳会の方ですね。
ここで立田實氏の知床岳山行記を読むとはびっくりです。
残念ながらオリジナルの『駆ける山々5000日』をまだ手にしたことはないのですが、遠藤甲太氏の『失われた記録−立田實の生涯−』という豆本を、何十年かぶりに引っ張り出して再読しました。
記録としての信憑性は薄いものの、植村直己や細貝栄と並んで、私の中ではあこがれの登山家です。
僕は、遠藤甲太さんの『登山史の森へ』で立田實さんのことを知りました。立田實さん、すごい方ですね。『登山史の森へ』は市の図書館本で読みました。
立田實さんや『登山史の森へ』に興味のある方は、以下のブログに良くまとまっているので、ご紹介します。
(ご参考)→http://blog.goo.ne.jp/alpaineski/e/5a21c8337a2a27ca622d429c89f6c4fd
遠藤さんの豆本編集ではお手伝いして、紹介記事添付しました。まあ立田さんという人は早熟な人で、19歳でこの冬の知床や冬の一ノ倉単独登行しています。お金持ちで優雅道楽な人でした。今ではマイカーで簡単に接近できる冬の知床でも、1週間ほど林道歩きするくらいですから、あの時代は相当なもの。その記録なぞって、再録したまでです。知床岳は、今では羅臼から行きますね。斜里の方から行ったのは彼だけでしょう。
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