岡山市 足守町並み保存地区〜鍛冶山周回 歴史と自然の町


- GPS
- 03:47
- 距離
- 8.6km
- 登り
- 183m
- 下り
- 167m
コースタイム
- 山行
- 2:52
- 休憩
- 0:54
- 合計
- 3:46
歩行距離8.5km、歩行時間3時間、歩行数13,600歩、消費カロリー1,900Kcal
天候 | 晴れ時々曇り |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2021年01月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
自家用車
なお、鍛冶山頂上<写真40>まで舗装道路が続いており、2台分程のスペースがありますが、自動車1台程の幅しかなく、苔が生えた上にこの時季は落ち葉が積もっているのでおすすめはしません。 |
コース状況/ 危険箇所等 |
危険箇所やヤブコギはありません。土道なのは、弓矢地蔵堂<写真30>からコガタスズメバチ?の巣<写真31>を経て宝篋印塔<写真32>に戻ってくるまでと、鍛冶山頂上<写真40>辺りから洪庵トンネル北北西の国道429号線の下をくぐる少し手前辺りまでの2か所です。これ以外は園内を除き舗装道路です。 なお、国道429号線の下をくぐる直前(地形図の小さな池の辺り?)で道に犬が2匹出てきて吠えていました。長さ3m程のリードで一応、つながれており、近づくとすっ飛んで道の下の空き地に避難、近寄ってくることはありませんでしたが、苦手な方は洪庵トンネル北の荒神社(地形図の神社マーク周辺)方向に下りたほうがいいでしょう。地籍調査のピンクテープがあったので、そちらへもヤブコギなしで行けるだろうと思います。 弓矢地蔵堂<写真30>からコガタスズメバチ?の巣<写真31>を経て宝篋印塔<写真32>に戻ってくるまでは、鉄塔巡視路に続く土道のようです。 弓矢地蔵堂<写真30>から東に延びる土道に入り、岡山県埋蔵文化財地図でコガタスズメバチ?の巣<写真31>撮影地点南にあるとされている室町時代の石仏を見に行きました。東端には、中国電力からの依頼で下草刈りをしてあるような立て札がありました。 結局、コガタスズメバチ?の巣<写真31>撮影地点の建物から南に道はなく、少し引き返して東に向かう細道から尾根道に入りました。そのまま南東に向かうと鉄塔巡視路に合流するようでしたが、今回は引き返しました。 鉄塔巡視路を辿れば、鍛冶山頂上<写真40>北東の才ノ嵶(さいのたわ)池に出られたかもしれません。 鍛冶山頂上<写真40>辺りから洪庵トンネル北北西の国道429号線の下をくぐる少し手前辺りまでは、竹林や雑木林の中の細道や鉄塔巡視路です。 鍛冶山頂上<写真40>から少し迷い、西のフェンスに囲まれた電波塔の東側から竹林に入ってみましたが、ヤブのようでした。そのすぐ南までが舗装部分で、そこから竹林の入口がありました。細道<写真41>にはたまに赤いテープがあり、迷うことはありません。 祠<写真44>南南西の標高155m鞍部から出丸跡<写真45>北の標高165m辺りまでは切岸(きりぎし)のようで、こんもりした部分を3箇所乗り越えました。この周辺は少し急で滑りやすく、木の根や枝を掴んで登りました。 出丸跡<写真45>を過ぎるとすぐに滑りやすい土の急下りで、積もった落ち葉に気を付けて木を掴みながら歩きました。標高150mを過ぎると緩やかになります。 標高115m辺りで鉄塔巡視路に出合い、送電線沿いに進みました。標高120mの分岐で左折、南下しましたが、直進したほうがよかったようです。結局、標高110mで合流しました。 標高40m辺りは分岐で西に向かう細道と地籍調査のピンクテープがあり、荒神社に下れそうでしたが、直進したところ、道に出てきていた犬2匹に吠えられました。左折するとすぐに舗装道路で、最後に右折、国道429号線の下をくぐって越えました。 |
その他周辺情報 | 藤田千年治邸<写真50〜55>から足守歴史ふれあい通りを南南西に少し進むと、足守プラザがあります。お食事処洪庵茶屋での食事の他、土ひねり体験などもできます。 |
写真
木下権之助家は、足守藩3代藩主木下利房が養子とした権之助利古を家祖にした藩主一門の家筋で、当主が代々権之助あるいは権輔を名乗り、北木下家とも呼ばれていました。足守小学校内にあります。
明治維新後に屋形構の廃止された跡地は、文教施設の場として、旧制女学校、公民学校、青年学校、新制足守中学校などに承継され、最後に使われていた足守小学校のプールと足守幼稚園が移転された後、平成7年に公園として整備されました。
木下家陣屋跡の木の枝に止まっていました。こちらには気づいているようで、動画を撮っている間中、きょろきょろしていました。シメやコイカルとは違い、頭部の黒っぽい部分の端がちょうど目の辺りにきます。
荒壁の長屋門風の建物は、藩政期から続く木下家の残務整理のために大正時代に建てられたものです。入り口右の土蔵の中からは秀吉、秀次の関白叙任状や秀吉直筆の古文書など貴重な豊臣氏関連資料が近年発見され、大きな話題となりました。
昭和34年(1959年)に岡山県指定名勝になりました。この建造物は、六代目旧足守藩主が宝永5年(1708年)に、幕府御用として京都御所の仙洞御所、中宮御所を普請した時に、その残財を持ち帰って建築したものといわれています。
園池内につくられた鶴島にありました。明治19年(1886年)に生まれた利玄は足守藩時代最後の藩主を父にもつ歌人です。青年期から短歌革新運動に力を注ぎ白樺派の中心作家として活躍し、口語、俗語なども大胆に取り入れた写実的で平易な利玄調の歌風を完成し、歌壇に新風を巻き起こすとともに、明治大正の文学史に大きな足跡を残しました。
吟風閣
数寄屋造で階下は「さし天井」、2階は「舟底天井」となっています。また、雨戸の戸袋は、片方だけにあり、開閉するときは、部屋の角の柱の所で直角に敷居を滑らせ、回転させる仕組みです。その開閉シーンを見ることができました。動画は、無人になってから撮影しました。
ルリビタキ♀
再び移動、動画を撮り始めると、5cmはありそうなミミズを丸呑みしました(*_*;さすがに、ちと長過ぎたようで、途中で一休みしていましたが(*^^*)食べ終わると、思い出したようにこちらを向き、「私になにか!?」満腹で体が重くなった彼女には悪いのですが、よけてもらって先に進み、やっと近水園(おみずえん)から出られました。
もともとは南米に住むネズミの仲間で、頭から胴体まで50〜60cm、上下各2本の大きな山吹色の前歯が特徴です。毛皮をとる目的で持ち込まれたものが野生化、生息域を広げ、世界および日本の侵略的外来種ワースト100に選ばれています。ちなみに岡山県はヌートリアの生息数が日本一といわれています。
県外の方が岡山で普通に見られるヌートリアを見たら「岡山のネズミ、デカっ!(+o+)」と思うかもしれませんが、可愛い表情と仕草をします(#^.^#)動画を撮っていると、護岸の石の陰に隠れました。
塔のような受信機でGPS衛星が発信する電波を受信して毎日位置を観測し、測量や地震予知などに利用しています。岡山市立大井小学校の校庭の南端に設置されており、フェンスの外から撮影しました。なお、大井小学校は他校との統合のため2011年3月末に閉校、現在ここは使われていないようです。
狛犬?や小さな祠もあり、かつては神社があったのでしょうか。石仏のお堂らしき建物と石灯篭がセットになっているのも周辺でたびたび見かけました。慶応2年といえば、徳川慶喜が第十五代将軍に就任した年です。足守にはこうした密かに眠る史跡が多数ありそうです。
板野酒造本店直売所
二面(ふたも)橋は足守川に架かる橋です。板野酒造本店の蔵のある大井の地はその昔「二面(ふたも)ごおり」と呼ばれていました。ちなみに、直売所「上之蔵」は、日曜日のこの日は定休日でした。
マガモのメスに似ていますが、くちばしの先端だけが黄色です。年中いるので、我が家の近所の田んぼでは、勝手にカルガモ農法をやっています。彼らがいると安心するのか、他のカモたちもやってくることが多いです。
おそらく右端が延命地蔵、隣は不明の石仏、その左が文英様石仏、左端が名号石でしょう。文英様石仏とは、天文2年(1533)から天正10年(1582)に造立された、文英という僧侶の銘の入った石仏およびその作風に似た石仏のことです。岡山市の高松地区を中心にここ足守地区や総社市、赤磐(あかいわ)市など限られた地域のみに見られます。
岡山県の埋蔵文化財地図では、この南に室町時代の石仏があるようですが、よくわかりませんでした。弓矢地蔵堂<写真30>にあった文英様石仏のことかもしれません。この建物は石仏を安置したお堂ではないようです。軒下に直径30cm程のスズメバチの巣がありました。小さめで軒下に作られているので、コガタスズメバチの巣でしょうか。
岡山県の埋蔵文化財地図では、この東に室町時代の「弓矢馬場宝篋印塔」があるらしいのですが、道がよくわかりませんでした。この宝篋印塔も古そうなので、もしかしたら、お参りしやすいようにここにまとめて移されたのかもしれません。
対岸にいる我々に気づいていないのか、柿の木にメジロの群れと1羽のヒヨドリが群がっていました。動画では、最初、メジロの背後にヒヨドリの体の一部が映っており、何だかわかりませんでした。おヒヨちゃん、デカっ!
&ジョウビタキ♂
トキワサンザシはピラカンサの名前で盆栽や庭木として市場に出回ることも多く、秋から早春にかけて楽しめる赤い実は野鳥の好物です。彼も最初はこちらを見ていましたが、何かたくらんでいるとしか思えない表情で足元に釘付け。やはり狙いはこれ?
動画を撮っていると、2粒食べて飛び去りました。たいてい2,3粒食べると飛び去り、すぐに戻ってきてまた食べます。以前、我が家の盆栽は彼とメジロのつがい、ヒヨドリのお食事処となり、3日で坊主になりました(*_*;
直径、深さとも2m程ありそうな昭和の遺物です。コンクリートで固めることにより雑音を防ぎ、反響音などにより集音し、中に入った人が敵の戦闘機の音を聞き分けて報告、戦闘準備や住民避難に役立てていたそうです。もう二度と使われないことを願ってやみません。
詳細は不明です。鳥の巣箱のような小さな祠は他の山中でもときどき見かけますが、これは彫刻があり立派でした。尾根からわずかに東に外れるのですが、道があったので大事にされているのでしょう。
振り返ってみました。出丸跡<写真45>から木の枝を掴みながら落ち葉で滑りやすい急斜面を下っていると、途中からこのように岩が埋まった脇を歩くようになりました。もう少し上から振り返ったほうが岩が連続しているのがわかりやすかったです。これなら、敵も下から攻めにくいでしょう。
蘭学医として名高く、適塾を開いた緒方洪庵は、文化7(1810)年、この地に生まれました。昭和3(1928)年に除幕式が行われた記念碑の下には、洪庵のへその緒、産毛、元服の遺髪が埋められています。
玄関の間(式台の間)など
長屋門をくぐり最初にある部屋です。岡山市の間取り図では、ここは式台の間となっています。すぐ奥の2畳の仏間は、武家屋敷には必ず設けてあり、自刃の場となります。最奥は3畳の脇部屋です。
装備
個人装備 |
長袖シャツ
ズボン
靴下(厚手)
防寒具
手袋(防水加工)
軍手
雨具
日よけ帽子とフード
雨用帽子
登山靴(防水加工)
靴ひも予備
サブザック
ザックカバー
地形図
コンパス
マップケース
筆記用具
携帯
時計(防水)
タオル
カメラ
飲料水(スポドリ&茶)
水筒(保温)
非常食(栄養補助食品)
スマホ(山使用可能)
eTrex22x(GPSナビゲーター)
虫よけスプレー
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感想
【歴史の町、足守】
足守は備中国の中枢の一部に位置し、古くより栄えていた地域です。
足守藩の初代藩主の木下家定は関が原合戦前は姫路二万五千石の城主でした。妹の「ねね」は木下藤吉郎(後の羽柴秀吉・豊臣秀吉)に嫁ぎ、秀吉が関白に任ぜられた天正13年(1588年)に大坂城に移り「北政所(きたのまんどころ=関白の正室の称号)」と称しました。なお、秀吉から木下姓を拝命し改姓する前は、杉原姓でした。その後、秀吉から豊臣の称号が与えられ、豊臣と名乗ることが許されました。
関が原の合戦には中立を保ち、大政所(=秀頼の母高台院)を守護しました。合戦後の慶長6年(1601年)に石高は変わらず、備中足守藩主に所領替え(左遷)となりました。しかし、家定は領国には下らず、京に住んで出家しました。ちなみに、諸大名から豊臣家の継承権保持者ともみられたのに、関が原の合戦で豊臣方から徳川家康に寝返った小早川秀秋は家定の五男です。
足守にはこのように木下家所縁の歴史的資料や史跡がたくさんあり、また、明治以降急速に失われた貴重な城下町の風景が今もなお色濃く残されており、岡山県の町並み保存地区にも指定されています。その一部を写真でも紹介しています。
【生き物の宝庫、足守川&日近川】
足守川や日近川(ひじかいかわ)では、5月下旬から6月上旬にかけてホタルの乱舞が見られ、市内一のホタル発生地になっています。これほどホタルが多くみられるということは、水が清らかで、魚類や鳥類など他の動物も棲みやすい豊かな自然に恵まれている証拠でもあります。写真や動画で特に愉快な動きをする野鳥たちを紹介しています。残念ながらカワセミは動きが速すぎてフォーカスすることができませんでした。
また、足守川を一躍有名にしたのは羽柴(豊臣)秀吉による備中高松城の水攻めです。梅雨入り前に12日間という猛スピードで完成させた堤防に足守川上流から水が導かれ、梅雨で増水した川の水は、あっという間に備中高松城の周囲を取り囲みました。これにより城内は物資の補給路を断たれ、毛利の援軍の接近も困難となったため、兵の士気が一挙に低下しました。その後は大河ドラマ「軍師官兵衛」でもおなじみ、歴史ファンなら誰もが知る備中高松城主清水宗治の自決と引き換えに城が守られました。
【足守藩の最前線拠点、鍛冶山城】
鍛冶山城の開基は鎌倉幕府滅亡後の建武年間(1334〜1336)大森治郎左衛門といわれており、天正年間(1573〜1592年)に宇喜多秀家の家臣の信原土佐守が城主となりました。やはりここでも宇喜多家が関わっていたか・・・(+o+)
天正10年(1582年)3月、秀吉が備中国に入り、備中高松城水攻めの際にこの城に入城し、隣にある毛利勢の宮路山城を攻め落としました。
その後、慶長5年(1600年)の関ヶ原の役で敗北して信原家も亡びました。当時、この城には妻子がいましたが、関ヶ原の敗北を聞いて備前に落ち延びました。一説には、子孫は延原に姓を改めて、現在も岡山に住んでいるといわれています。そういえば、備前市や岡山東区には延原姓の方が何人かいらっしゃいます。
足守は豊かな自然と歴史(史跡)に恵まれた趣深い所でした。この日は観光客を2,3人見かけただけでしたが、野鳥をはじめ生き物は多く、元気に活動していました。また機会があれば、今回行きそびれた史跡を見学しつつ、動植物観察を楽しみたいと思います。
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