阿保城(岸田伯耆城)、桐ヶ谷城(三重県伊賀市)


- GPS
- 01:57
- 距離
- 4.2km
- 登り
- 77m
- 下り
- 66m
天候 | 晴れ |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2021年06月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
自家用車
|
写真
写真はノエビア化粧品店を南側から見た様子です。国道165号線から来たときとは正反対の方向です。
案内板はこの南側です。
感想
【城名】阿保城
【別名】岸田伯耆城
【場所】青山町阿保字上ノ代
【形式】丘城
【地目】山林、畑
【立地】丘端
【規模】55×50m
【築城】室町時代
【築城者】−
【城主】岸田伯耆守遠正
【標高】204m(比高14.1m)
【見所】主郭、主郭土塁、主郭南北虎口、石垣跡、櫓跡
【訪城日】2021/06/20
【訪城時間】1時間1分24秒
【歴史】
『北畠家臣録』に阿保城主安保若狭守との記載あり。
永禄12年織田信長伊勢侵攻の際、戦死した旧勢和村五箇篠山城主野呂越前守に代わって阿保城主安保式部少輔が城主となる。天正13年筒井定次が伊賀に国替えされた時、家臣の岸田伯耆が阿保城主となる。
慶長13年筒井定次改易と同時に廃城となるか。
【概要】
市では城址と言うより聖武天皇の安保頓宮(仮の宮)跡としてPRしているよう。丘陵上にあり、四方に土塁を巡らした伊賀地方の一般的な城址同様に単郭形式となっています。北東隅には櫓跡があります。南北両方向に虎口が開けています。虎口や一部の土塁には石積み跡が残っています。保存状態、整備状態はかなりよい。
【アクセス】
息速別命(いこはやわけのみこと)または阿保(あお)親王の墓、あるいは聖武天皇阿保頓宮(あおとんぐう)跡などをナビで登録して、国道165号線阿保交差点を南下して県道29号線の旧道をたどります。車幅1台分くらいの狭い県道ぞいの東側に「阿保頓宮跡 この上」と墨書風に書かれた案内板があります。案内板があるところは城址北西の角を下に下りた辺りになります。城址の丘と狭い車道を挟んだ北側の角に廃業したと思われるノエビア化粧品店があるので目印になります。その辺りの道は狭いので、そのまま県道旧道を南に進んだ少し先の道路西側にある青山自動車南側の路地を西に入って家並みを抜け田んぼの横のスペースに駐車しました。位置的には阿保親王の墓の南側に当ります。詳しくはヤマレコかガーミンの軌跡を見てください。
【備考】-
【訪城記録】
【アクセス】の項で述べた「阿保頓宮跡 この上」とある案内板の脇に石段風の直登ルートがあり、そこを上がると主郭跡の北西端辺りになります。城址の北縁沿いに車道がありますが、そこを東に進むと主郭の北東端に上がれる道もついています。
先に述べた石段を上がると主郭西沿いの一段低いところに南北に細長い曲輪風の削平地があります。一応歩いてみましたが、草が生い茂っています。
石段を上がってそのまま道なりに東に進むと右手に北虎口があります。こちらが大手となるようです。虎口には石垣跡がありました。虎口の北側にも削平地があります。出丸と案内してあるサイトもありました。こちらも一応ぐるりと歩いてみましたが、草が生い茂っています。
北側虎口の西側には石段がつけられていて上がっていくと祠が祀られていました。主郭内も主郭を囲む土塁もよく整備されていて、くまなく歩けます。主郭を囲む土塁の南東端にも祠が祀られていました。北東端は広くなっており『日本城郭大系』によると櫓跡とあります。櫓跡の東端は土塁状に土が盛り上がっていました。
主郭内の中央だけ日の光が差し込んでふわっと明るく幻想的です。主郭内の中央に西向きに石柱が立っており、聖武天皇阿保頓宮跡の文字が彫られています。主郭内の東中央あたりにくぼみがありました。井戸跡かも分かりません。
主郭南側にも虎口がありますが、北側よりやや小規模です。『三重の中世城館』によると南北の虎口を通り抜けて道がつけられていたようです。南虎口付近の道跡沿い、南北虎口付近、それに東側と南側土塁の外側に石垣跡が確認出来ました。
主郭土塁の東から南側に沿って浅い溝のような筋状のくぼみがありました。堀跡でしょうか。
主郭南側にも削平地があり墓になっていたり竹藪になっていたりしましたが、『日本城郭大系』の縄張り図には曲輪などとの記載はありません。
主郭東側にも削平地があり、主郭寄りは下草も刈られており、整備されていますが、さらにその東側には主郭より広大な竹藪に覆われた敷地がありました。『日本城郭大系』によると二の丸跡か館跡のようです。この竹藪の東端にも石垣が残っていました。西側には土塁の跡のような地形が確認出来ました。
ちなみに城跡と県道を挟んだ西側に阿保親王の墓があります。阿保親王と言えば『伊勢物語』の主人公在原業平の父として知られていますが、こちらの方はそれとは別人とのことです。
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【城名】桐ヶ谷城
【別名】桐谷堡
【場所】阿保字桐ケ谷
【形式】−
【地目】 山林
【立地】 丘端
【規模】 65×120m
【築城】−
【築城者】−
【城主】安保氏か
【標高】(比高m)
【見所】主郭、土塁、空堀、石垣
【訪城日】2021/06/20
【訪城時間】56分9秒
【備考】-
【概要】
上ノ代の北に桐ケ谷と呼ぶ地域があり、その中央の丘陵に城跡がある。城跡は四方に土塁が巡り、その周囲に空堀が残る。城の内部は崩れていてはっきりしないが、25×23mの広さだったか。北に小さな石で築いた23×30mの一郭があり、空堀が三方にあるが、用途は不明。筒井定次家臣岸田伯耆の城ともいわれるが、『三国地誌』では岸田伯耆城と桐谷堡とを区別している。城主は不明だが、この地の豪族の安保氏かその一族の城か。(『三重の中世城館』より)
【アクセス】
車の場合国道165号線阿保交差点を南に進みます。その道は桐ケ丘団地や青山小中学校に続きます。(ちなみにこのあたりは「なんとかヶ丘」と書く際、小さい「ヶ」ではなく大きい「ケ」と書くそうです。住民には強いこだわりがあるようです。)右手前方に送電線の鉄塔が立つ小高い山が見えてきますが、それが桐ヶ谷城です。
丘を右手前方に見ながら道なりに桐ケ丘方向に進み、城址に近づくと城址の西側を通る未舗装路が逆V字状に山腹に取り付くような形で分岐しているので、そちらに進みます。しばらく進んだ後、適当なところから山腹にとりついて上っていくと主郭の東側に出合いました。
普通車では未舗装路には入れそうにないのでそれまでにどこかに停めないといけません。その辺りに停めるスペースを見つけるのは難しいかもしれません。私は阿保城から歩いて移動したので、車は阿保親王墓南の田んぼ横のスペースに停めてきました。
【訪城記録】
城は傾斜が急な山の斜面に作られていて西側が低く、東側が高くなっています。主郭のみの単核郭形式の城で、西側に虎口が開いています。主郭の周囲には土塁が巡らされその外側には空堀が掘られています。南側の空堀には石積みの跡が確認出来ました。
また、虎口の外側に主郭に垂直に突き当たる形で空堀が掘られています。『三重の中世城館』によると
主郭の山側の土塁が崩れたようで、主郭内の山側半分くらいは斜面となっています。
以前は藪化がひどくて歩きにくかった様ですが、阿保城ほど整備されておらずともくまなく歩けるくらいにはなっていました。
城址には北東側からと北西側からと進入ルートがありますが、今回北東側から入って、北西側に出ました。
▼ガーミン軌跡
https://connect.garmin.com/modern/activity/6988585545
▼これまでの訪城記録
http://nack1003.livedoor.blog/archives/6463470.html
▼攻城団
https://kojodan.jp/profile/11671/
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