岡山県浅口市 稲荷山〜鴨山 岩だらけの山城跡&西国33所巡り



- GPS
- 02:56
- 距離
- 4.5km
- 登り
- 268m
- 下り
- 261m
コースタイム
- 山行
- 1:59
- 休憩
- 0:44
- 合計
- 2:43
歩行距離4.5km、歩行時間2時間、歩行数8,900歩、消費カロリー1,110Kcal
天候 | 曇り時々晴れ |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2018年02月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
自家用車
|
コース状況/ 危険箇所等 |
滑りやすいなど歩き難い所にはロープを設置するなどよく整備されています。今回と逆まわり(時計まわり)のほうがより安全です。鴨山城跡南曲輪登城口<写真21>の案内板の下にあるパンフレットを見ながら登るとよりわかりやすいです。今回は山城跡の北端である北の曲輪の堀切<写真32>で引き返しましたが、青いビニール紐がさらに下へと続いていました。鴨山城跡南曲輪登城口<写真21>の北70mにある北曲輪登城口からの道かもしれません。 道中には岩が点在し、上に立つこともできます。磨崖仏が彫られているものもありますが、バチが当たらない程度に遊べたと思います(^^♪ 西国13番<写真53>へ向かう脇道を見落とし、12番<写真51>から岩の間をよじ登ると再び14番<写真47>に出ました。道はありませんが、登るのに支障はありません。これ以外は道から外れず歩いています。 その他、コース状況の詳細は別途PDFファイルにまとめています。 |
その他周辺情報 | かもがた町家(まちや)公園は2006年に日本の歴史公園100選に選定されました。伝承館(旧高戸家住宅)<写真67>は江戸時代の貞享4年(1687)に修理をした県下で最も古い貴重な町家です。3月25日まで「ひな人形展」<写真68,69>をやっています。 また、交流館内にある「まちや亭」では、鴨方名産の素麺を使用した町家そうめんを食べることができます。 |
ファイル |
(更新時刻:2018/02/26 23:01)
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写真
より交流館
「日本の歴史公園100選」に選定されている公園の駐車場です。この辺りは、江戸時代、岡山藩の支藩鴨方藩の中心地だったところで、公園の前を東西に結ぶ旧鴨方往来は重要な街道でした。
書状集箱とは日本で郵便制度が始まった明治4(1871)年から使用された日本で最初のポストです。このポストと同じ型のものが、かもがた町家公園入口近くに設置されています。投函したらちゃんと届くそうです。
顔が見えづらいのですが、目の縁取りがはっきりしており白い眉斑が見えないようなのでオスだと思います。ピッ、ピッと鳴きながら体を上下に揺すっているところを動画に撮っていると、尾羽の付け根から落とし物が・・・そりゃ、そんなことしたらはずみますよね ( *´艸`)
より南方面景観
公園の北の奥にある展望台から園内および鴨方の町並みが一望できます。向かって左の蔵造りの建物が「郷土の館」、右が「ふれあいの館」です。郷土の歴史や文化、観光などの確認ができます。伝統植物園ではクサボケが咲き始めでした。
「鴨方に過ぎたるものが三つある。拙斎・索我・宮の石橋」と謡われた鴨方三奇の一つです。長い板状の石6枚を反らせて整えた太鼓橋で、鴨方の町筋からの参道を上ってくる参拝者のために造られたものとのことです。立体交差点のようになっており、下をくぐることができます。
平安朝の初期、仁明天皇の御代承和3年(836年)に京都賀茂明神の分霊を奉祀し創建されたものと言われています。数度の炎上に遭い、拝殿は明治45年、本殿は昭和18年に再建されています。
警戒心がほとんどないのでバカビタキなどと呼ばれることもあります。確かに、オスには70cmの距離で愛をささやかれたことがあります。このメスはしばらくこちらをもの珍しそうに見ていましたが、動画を撮り始めると下りてしまいました。この少し西から動画を撮りながら忠魂碑のある標高70m小ピークに向かいました。
如意輪観音
今回の山行で最初に出てきた石仏で、鴨山西国三十三所の27番です。圓教寺は兵庫県姫路市の書写山に位置する寺院です。西国三十三所のうち最大規模の寺院で、西の比叡山と呼ばれています。魔尼殿安置の如意輪観音坐像の御開帳は1月18日のみです。
十一面観音
ロープのある岩の間を下りる途中で、南方面が見えます。中山寺は兵庫県宝塚市にある寺院で、真言宗中山寺派大本山です。山号は紫雲山といいます。明治天皇がこちらで受けた腹帯にて無事お生まれになったご縁で勅願所となり、安産の寺として有名です。
西国三十三所には清瀧観音も清瀧寺もありません。この石仏の頬杖に片膝を立てたポーズは、如意輪観音のように見えます。清瀧観音は巡礼とは関係なく、古来から伝わる地元の信仰スポットなのかもしれません。
地デジのテレビ塔を過ぎて踏み跡を辿ると、「荒瀧天神」碑の隣にあります。周辺は草木が茂って見えにくいので、少し開けた所からズームしてみました。「一天皇道皆帰世界」碑もありました。かつては稲荷神社があったのでしょうか。
いったんアスファルト道に出ると、駐車スペースと鴨山城跡の案内板がありました。下にあるポストの中にあったパンフをいただき、とりあえず予定通り南曲輪(くるわ)に向かいました。この70m北に北曲輪登城口があるようです。
穴太寺の聖観音像は身代わり観音の伝説で知られ、この伝説が今昔物語集に取り上げられていることから、平安時代末期には観音霊場として知られていたことがわかります。前方に岩場が見えたので、ここから歩きながら動画を撮りました。
曲輪境界の堀切
歩きながら動画を撮っている途中にありました。いったんスルーして戻ってきました。堀切(ほりきり)は、敵の侵入を防ぐため尾根を切り込んで造られた溝です。ここで曲輪(くるわ)が南北に分かれています。鴨山頂上のある南の曲輪は後回しにして、いただいたパンフに従い予定外だった北の曲輪に行ってみることにしました。
最高所曲輪
曲輪(くるわ)は城などの区画の名称で、土塁や石垣などで囲まれ櫓(やぐら)や御殿が建てられています。ここは標高166mで、167.7m三角点のある鴨山頂上<写真33>とあまり変わりません。
切岸(きりぎし)は登りにくくするために造られた急斜面です。下ってから振り返って見ました。もう少し下がって見たほうが急斜面なのがわかりやすかったようです。落ち葉だらけですが、帰りも登りにくくはありませんでした。
遥照山&安芸守山
北の曲輪の北端は二手に分かれており、東側からは東北東に山城跡がある安芸守山(あきのかみやま)、北東には手前に地頭富士、奥に映画のロケ地として今話題の遥照山(ようしょうざん)が見えました。
案内板はありませんでしたが、この溝状の地形は堀切(ほりきり)でしょう。さらに下に青いビニール紐がありましたが、ここが北の曲輪(くるわ)の北端のようなので引き返し、南の曲輪に向かいました。
&鴨山頂上三角点
さて、クイズです。三角点はどこでしょう。正解は・・・「曲輪」の案内板のコンクリートの土台の真裏です。茶色くなった標柱が転がっているのが写っていました。向こうに見える安芸守山(あきのかみやま)に見とれてスルーしてしまい、引き返して探しました。大切にしましょう三角点(^_-)-☆
標高167.7m頂上三角点<写真33>を過ぎると急に滑りやすいザラついた土道になりました。この切岸(きりぎし)のほうが北の曲輪の切岸<写真28>よりもずっと歩きにくかったです。
泉山城から鉢山まで
浅口の山城遠景の案内板の脇から南方面の山々が見えました。向かって左から泉山城跡のある泉山、中央に寄島竜王山、右背後にうっすらと見えるのが2週間前に行った青佐山(おおさやま)、右端は鉢山です。
岩越しに鴨山城址碑
登山道の脇にはこうした岩があっちこっち埋まっています。逆回り(反時計回り)したので、鴨山城址碑は裏側の「城主細川公」と彫られた面が写っています。この石碑は家臣のご子孫が建立されたものです。
如意輪観音
頂法寺(ちょうほうじ)は京都市中京区堂之前町にある天台宗系単立の仏教寺院で山号は紫雲山といいます。飛鳥時代、587年に聖徳太子が念持仏であった如意輪観音を本尊とする御堂を建てたことが始まりです。本堂が真上から見ると、平面六角形であることから六角堂の通称で知られています。
これは磨崖仏ではなく、岩の手前の小さな石柱に彫られたものです。聖徳太子に仕えていた小野妹子が池のほとりに宿坊を構え、 毎日、本尊にお花を供えていたのが生け花の始まりとされ、のちの華道池坊となりました。
石積み南東の大岩
石積みの案内板の南にある大岩に連れが座っています。南方面の福池や振り返って石積みなどを動画に撮りました。GPSのログを確認すると、ちょうどこの下あたりが西国14番&15番の磨崖仏<写真47〜50>のある岩場のようです。仏様の頭上に座ってしまっていたのかもしれません。申し訳ございません(>_<)
北東に安芸守山(あきのかみやま)が見えました。これも地頭富士と呼ばれることがあるきれいな山容です。山城跡ですが、遺構は我々のような素人にはわかりにくく鴨山ほどは整備されていません。ただし、たくさんルートがあって楽しめる山です。
如意輪観音
道沿いに不意に大きな磨崖仏が現れました。三井寺(みいでら)は正式には園城寺(おんじょうじ)といい、滋賀県大津市園城寺町にある天台寺門宗の総本山で山号は長等山(ながらさん)です。日本三不動の一つである黄不動で有名です。
十一面観音
西国14番<写真47,48>の隣にありました。見上げると天然の岩屋のようになっています。今熊野観音寺は京都市東山区泉涌寺山内にある真言宗泉涌寺派の寺院で山号は新那智山といいます。
本尊は弘法大師が熊野権現より授かった一寸八分の観音像を体内仏として自ら彫刻された十一面観世音菩薩です。さらに西にオーバーハングした岩塊が続いていたので、行き止まりから引き返しながら動画を撮りました。磨崖仏はここのが一番見応えがありました。
本尊は三重のお厨子に納められている御丈15cmの千手観音で、"雷除け観音""汗かき観音""厄除け観音""ぼけ封じ観音"と呼ばれています。この磨崖仏の手はかなり省略して2本だけ?13番<写真53、54>を飛ばしたのに気づいて周辺を探し、岩の間をよじ登ると14番<写真47,48>に出ました。
如意輪観音
あきらめて再び12番<写真51,52>へと下る途中に、やっと脇道に気づきました。ここで行き止まりです。石山寺は、滋賀県大津市石山寺1丁目にある東寺真言宗の寺院で山号は石光山といいます。『源氏物語』の作者紫式部は、石山寺参篭の折に物語の着想を得たとする伝承があります。
本尊は約1200年前(宝亀元年)、光仁天皇の勅願により、三室戸寺の奥、岩淵より出現された千手観音菩薩です。この磨崖仏はシンプルでかわいらしいです。やはり、手はかなり省略されたのでしょうか。
准胝観音
10番<写真56,57>から岩の間の細道を上るとありました。周辺は岩で囲まれ、なかなか楽しいロケーションでした。醍醐寺(だいごじ)は京都府京都市伏見区醍醐東大路町にある真言宗醍醐派総本山で山号を醍醐山(深雪山)といいます。西国で最大の難所であり、豊臣秀吉による醍醐の花見の行われた地としても知られています。
これで磨崖仏は終わりです。顔が3面なのが気になります。本尊である准胝(じゅんてい)観世音菩薩は、上醍醐と呼ばれる山の山頂付近にある准胝堂に祀られていましたが、平成20年8月の落雷が原因による火災によりお堂が焼失したため、下醍醐・伽藍内の観音堂、上醍醐・登山口の女人堂に准胝観音を安置しています。
千手観音
墓地の脇です。もう少し下ったところに4番があるらしいのですが、見落としてしまいました。葛井寺(ふじいでら)は大阪府藤井寺市藤井寺にある真言宗御室派の寺院で藤井寺、剛琳寺とも称し、山号は紫雲山といいます。
長川寺(ちょうせんじ)は曹洞宗の寺院で、源頼政の末裔である西山宗久を開基とし、1412年、永祥寺第三世英巌章傑禅師が開山した古刹です。1575年、鴨山城主細川通董が菩提寺として整備し、寺領120石を寄進しました。現在の本堂や庫裏は1704年に建てられたものです。仁王像は新しそうでした。
如意輪観音
長川寺(ちょうせんじ)入口にありました。青岸渡寺(せいがんとじ)は和歌山県南東部那智勝浦町にある天台宗の寺で山号は那智山といいます。花山天皇によって西国三十三所の第1番札所とされました。
十一面観音
長川寺(ちょうせんじ)境内にありました。華厳寺は、岐阜県揖斐郡揖斐川(いびがわ)町谷汲徳積(たにぐみとくづみ)にある天台宗の寺院で 山号は谷汲山といいます。 西国三十三所の札所寺院では唯一、近畿地方以外にあります。鴨山西国三十三所巡礼も無事に終わりました。
1571年に創建し、1897年に廃寺となった浄土真宗の正伝寺の山門で、唐破風(からはふ)がついた唐門になっています。後に鴨方高校がこの地に建てられ、正門として親しまれました。高校が移転したため、現在、周辺は更地になっています。
鴨方藩陣屋跡と言ったほうが通りがいいようです。鴨方藩25,000石の所領支配の拠点で、現在は黒住教の建物が建ち、石垣と井戸が残っているだけです。ちなみに、鴨方藩の初代藩主は、岡山藩主池田光政の次男政言(まさこと)です。
江戸時代の貞享4年(1687年)に修理をした県下で最も古い貴重な町家で、岡山県の重要文化財です。写真中央は油売りの店の入口、左端の木製の衝立がある辺りが客人用の入口、写ってはいませんが、このさらに向こうに鴨方藩主が宿泊する際に利用した御成門(おなりもん)があります。奈良から移り住んだ高戸家は、今井型(大和造り)の居を構えました。油商として成功し代々庄屋を務めた家柄です。内部の詳細は感想参照。
装備
個人装備 |
長袖シャツ
ズボン
靴下(厚手)
防寒具
手袋(防水加工)
軍手
雨具
日よけ帽子とフード
雨用帽子
登山靴(防水加工)
靴ひも予備
サブザック
ザックカバー
地形図
コンパス
マップケース
筆記用具
携帯
時計(防水)
タオル
カメラ
飲料水(スポドリ&茶)
水筒(保温)
非常食(栄養補助食品)
スマホ(山使用可能)
eTrex30(GPSナビゲーター)
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感想
岡山県浅口市鴨方町にある稲荷山と鴨山を訪問しました。鴨神社<写真06>を登山口とし、稲荷山から鴨山にかけて鴨山西国三十三所観音巡りを敢行し、道中、鴨山城跡も見学するというお得な?コースです。
“西国三十三所”とは元々、近畿(岐阜を含む)に点在する33ヶ所の観音信仰の霊場の総称です。これらの霊場を札所とした巡礼は日本で最も歴史がある巡礼行として知られています。すべての観音菩薩を巡礼参拝すると、現世で犯したあらゆる罪業が消滅し、極楽往生できるとされています。
鴨山西国三十三所は、文化2年(1805年)、長川寺(ちょうせんじ)住職の海心大竜和尚が開創したものだとも言われており、境内にある1番から鴨山、稲荷山、鴨神社を巡る2.5km程のコースです。写真や動画でも紹介していますように鴨山には磨崖仏がたくさん刻まれています。これだけ限られた狭い山域で、これほどたくさんの磨崖仏を見たのは初めてです。まさにパワースポットです。 おかげがありそうな気がしました(^^♪
鴨山城は応永14年(1407年)、細川満国によって築かれ、その後、宇喜多氏に奪われましたが、七代鴨山城主となった細川通董が天正3年(1575年)に毛利氏の援助のもと奪還したといわれています。
鴨山城跡は小さな山にありますが、堀切(ほりきり)や切岸(きりぎし)などの遺構が素人目にもはっきりわかる貴重で楽しいスポットでした。山中に点在する大岩は敵の上に落として武器として使用するつもりだったのでしょうか。それらが江戸時代に観音信仰の場となったというのも興味深いです。
最後に見学した伝承館(旧高戸家住宅)は平成10年に岡山県の重要文化財に指定され、ガイドの方に中を案内していただけます。ちなみに、隣の交流館が指定されていないのは、空調設備が入っているからだそうです。
油商の店用の入口は、格子戸が部分的に開いたり、内側にある扉が屏風のように二つ折りになったり、かんぬきに割りを入れて鍵がかかるようにしてあったりと構造が珍しく、これだけでも十分楽しめました。はめ殺しのはずの窓格子も外せるようになっていたのには驚きました。
中の間の土壁には遥照山(ようしょうざん)の南で採れる赤土を用い、うっすらピンク色を帯びた独特の色合いが残っています。鴨方藩主が宿泊する座敷には、島根の和紙を用いた壁、故郷奈良の鹿を描かせた襖絵、この辺りにはない栂(つが)の木の柱など、珍しい物がたくさんありました。
近所の方々からお借りした立派なひな人形も見応えがあり、あっという間の1時間でした。冷暖房がないのでこの時季は上着を着ていても少し寒いくらいでしたが、ガイドさんの楽しいお話に心は温かくなりました。また機会があれば鴨方往来もゆっくり歩いてみたいです。
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