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若い後輩の相棒と二人で登頂の後、九合目付近を下山中に突然「滑落!」の叫び声を聴き、振り返ると我々のすぐ上を人が滑り落ちてくるのを目撃した。
懸命にピッケルで滑落停止姿勢をとっていたが我々の真横40メートル程下でピッケルを弾かれて、落下速度を増しながら落ち続け視界から消えていった。
私と相棒は、直ちにその場に居合わせた他会パーティ2名と救助のため、落下地点を目指して急ぎ下った。
当日は正月休みの快晴で吉田口五合目は登山者が多かったが上部は強風と突風が酷く、八合目までに引き返す人が殆んどで登頂者は十数人足らずとみられた。
山頂での気温はー20度C以下で八合目より上の雪渓は所々油氷状にクラストしていた。
雪渓に露出する岩が多くなる八合目下に到達して間もなく、雪渓上に朱色の一条の線が下に向けて真直ぐに走っているのを見つけた。
その巾20センチ程の朱色の線は明らかに血液の付着によって付けられていた。
雪面に薄く付着した血液は橙色に近い朱のような色に見えるのである。
それを見て滑落者は露出した岩に次々打ち当って出血性の重篤な傷を負っている疑いが強く、我々は急ぎ足で雪渓を下った。
六合半ばで傾斜が弛み雪面が柔らかくなると朱色の線はより色濃く明確になり、出血量を考えると生存の希望が次第に小さくなる。
そして朱色の滑落痕を辿り、それに導かれて滑落者を六合ツバクロ沢滝下で発見した。
全身の着衣を血に染め、頭を下にうつ伏せに岩に引っかかるように倒れていた。
私がすぐに脈を採って見たが無念にも既に死亡していた。
私と相棒が現場に残り、他会の2人が下の小屋に連絡に走った。
小屋の人と遭難者のパーティ仲間計3人がスノーボートを引いて現場に到着するまで暫しの時間、普段口数の多い若く元気な相棒が終始無言で遺体を見つめていたのが印象に残っている。
遭難者は、地元の富士吉田市役所水道課に勤務する26才の男性職員 W氏であった。
仲間と下山中に九合目で突風に煽られ転倒して、そのまま滑落したとのことであった。
遺体と共に下山し、遭難者の仲間と一緒に警察の事情聴取を受け、滑落時と遺体発見の状況を説明した。
検死の済んだ遺体が市内の遭難者の実家の母上の元に運ばれ、相棒をキャンプに戻した私と遭難者の仲間が警察官と共に事情説明をかねた弔問をした。
涙に眩れる母上にお悔やみと遺体発見の経緯を説明したが、そのとき自分はたぶん言葉に詰まり、文脈も正しく辿れてはいなかったろう。
1960年、正月の悲惨な記憶である。
冬の富士山は時として恐ろしい牙をむく。
厳寒と強風も相当なものだが、油氷状の雪渓と突風が曲者なのである。
その状況で転倒してしまい、滑落が始ったら止めるのは極めて難しい。
バランスを崩し転倒する瞬間に、倒れざまに身を処してピッケルのピックを雪面に打ち込まねばならない。
私が登山に入門した1950年代の雪渓歩行時はピックが後ろを向くようにピッケルを持ったが、1960年代になるとピックが前を向くように持つのが主流になっていた。
上りでは前向き、下りでは後ろ向きの人も居た。
持ち方の適、不適は状況に因るが、転倒した時に滑落前に、少なくとも加速しないうちにピックを打ち込むことに主眼が置かれたのであろう。
それ以前の昔は、滑落停止の訓練として比較的に緩くて下が安全な雪渓に背中から身を投げ出し、ある程度加速してから後ろ向き持ったピックを、腹這い姿勢に反転して膝を曲げ、雪面に打ち込む方法が採用された。
だが、最も効果的とされた此の訓練方法をもってしても、たとえ雪質がどうあろうと効果的ではなく、試みた人の多くが予想以上に長い制動距離を要したり、巧く止められずに驚いたに違いないと思う。
要は雪渓での転倒やスリップでは、滑落にならないうちに俊敏に体をかわしピッケルを操作する必要があるのだと思う。
転倒時の滑落防止と停止も重要だが、それ以前にピッケル(バイルを含む)にはバランス保持具として更に重要な役割がある。
バランスを的確に確保していれば、転倒することも極めて少ない。
歩行時の石突とシャフト、そしてピックとブレードの斜面への接触(打ち込み)動作の習熟が必須且つ重要なのだと思う。
勿論、突風襲来時の素早い三点確保姿勢もその一つである。
図らずも、富士山の滑落映像を見て、昔の山の悲しみの数々を思い出してしまった。
その昔、僅か9ヶ月の短期間に、この冬富士滑落に始まる3件の遭難事故に遭遇し4人の若者が命を落とした。
私の遺恨の根源も、その事実の中に沈殿するが如く今も尚存在している。ainakaren
*(2015年1月6日 一部文面の字句訂正と字句追加を実施)
*「滑落停止の悪夢」 http://www.yamareco.com/modules/diary/8042-detail-90619
*体感的バランス確保具に関連する日記
「短いピッケルと沢バイル」 http://www.yamareco.com/modules/diary/8042-detail-68730
*「朱色の滑落痕から半世紀の後に〜」 https://www.yamareco.com/modules/diary/8042-detail-86774
富士山は毎年12月半ばに、明るくなると佐藤小屋から出て滑落訓練をやっていましたよ、
冬の富士山は厳しくて私達が訓練中に、その間に上を目指して先輩の二人が登って行きましたよ、
その一人は氷川から奥秩父縦走の増富まで夜行日帰りや高尾から奥多摩経由御岳まで同じく夜行で歩くほどの健脚者で、
岩なども困難な岩場の実績もありますが、それでも結構パートナーがキツかったので精神的に多少疲れた様子でした、
冬の富士山の突風は桁違いです、その上部はアイスバーンで一旦滑落したら停止は不可能に近いです、
おそらくザイルで結んで確保などしても一人が滑落すれば止めるのは不可能ではないでしょうか、
それ程冬の富士山は技術的にも体力的にも大変な山です、
話し変わりますがainakarenさんは結構遅くまで起きているんですね、
naiden46さん、お早う御座います。
年々睡眠時間が短くなりました。
早朝が苦手な低血圧ですので、宵っ張りになるのでしょう。
滑落訓練は滑落停止の限界を、身をもって知るために必要ですね。
正月(厳冬期)以外の富士に登ったことが一度もありません。
近年の秋、初めて富士の宝永山に登った時、斜面の様子や気候の冬との違いにビックリしてしまいました。
ainakaren
宝永山への登り斜面(10月)
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