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私の地元の山は神奈川県の丹沢である。住宅街を少し歩けば箱根、丹沢、富士山などが望める場所に居を構え、天気サイトを見つつも「今日は登れそうだな」と目視確認できるのは、今の場所に引っ越しを決めた理由でもある。
娘は丹沢を源とする沢で遊び、愛犬もプラティパス並みの滑らかで強固という、相反する特徴を持った強靭な胃袋でガブガブと水を飲んでしまう。自然の中で育ってほしいなとボンヤリ描いた子育て像であったが、娘は今日も元気にディズニープラスを観ており、今は自然というリアルよりファンタジー路線まっしぐらである。
仕事先の子供達とも山に登り、キャンプ場で遊び、時には取引先の人ともバッタリ出くわし「こんなとこで何やってんですか」と言われ「それはこっちのセリフですよ」と、世間の狭さを感じたのも丹沢だった。
私自身の登山も、丹沢で知ったことは数多くある。その名の由来でもある数多ある沢を内包する丹沢での沢登りは、私の人生観を変えたと言っても過言ではなく、標高の高さが必ずしも山の魅力の全てではないことを実感させられ、丹沢が持つ総合的な山の面白さを備えた魅力に魅入られ、今も一番登る頻度が多い。(近くて交通費が安くて便利、というのも本心です)
地元の山、というのは登山だけではない多様な体験と人生に影響を与えるという点では、登山者にとっては特別な位置づけにある。
そんな地元の山、何が登山者にとって人生に大きな影響を与えるのか。
それは山と生活の繋がりをリアルに感じるという点に、やはり尽きるのだろうと思う。
それをまず一番に実感するのは水である。
丹沢より流れる水が川となり、私の近隣の街を通っている。山で起きたことはそのまま私の生活を直撃し、影響を与えることになる。そうはいっても、スーパーで食材は買うし、私も毎日山や河川で採れる自然物で生活はしていないので、増水による氾濫対策が現実的な実感であるが、先日も沢登り中に空のペットボトルを拾得したり、全く読めない韓国文字がビッシリ刻まれた袋を、ギックリ腰を抱えた身体を使って拾い上げると、川の汚染を結構生々しく感じる。
これが遠征した先であれば強く実感することも難しいが、私が釣りをしたりカメの甲羅干しをぼんやり眺めている上流が汚れている事実は衝撃だ。
続いて実感するのが、食事である。
山を使って生まれ出る食材は多く、牛乳、卵、豆腐、茶葉など、登山口に向かうためにバイクを走らせると、ヨダレが出てしまう光景を目にする。生産者の営み、動物の姿、山に行く毎に生長していく野菜を見るのは、自分の生と山が繋がっているようで気持ちが良い。
地元の食材を地元で一定のペースで消化するのは、登山の土産でその土地のものを買うのとは異なり、山で生まれたものを生活として落とし込まれていくことであるので、より地元の山に親近感が湧き、他の山には無い厚みが出てくる。
最後に感じるのは信仰だ。
丹沢は山岳信仰の根強い山であり、山頂の名はこの信仰に由来するものも多い。より深い信仰心は持ち合わせておらず狩猟民でもないので、山に全てを依存しているわけではないが、同じ山を登り続けていると、地元の山が特別な意思を持っているかのように感じることがある。
巡り巡って信仰という形に姿を変え、地元の山がより感じられるようになる。山に登らなければ、これほど自分の土地を立体的に、奥深く捉えることが出来ただろうか。これも登山を続ける面白さだろう。
いつも通勤途中、出かける時、近所を歩いている時に見える地元の山。今でも遠方の山やアルプスには憧れはあるし、歩いている自分を想像するだけで心拍数が上がる山旅を計画しているが、いつもそこにある地元の山というのは、ドキドキ・ワクワクとは違う安心感があり、山というものの意思と繋がっているとさえ思える。
丹沢は、山が私の生活に繋がっている事を生々しく感じさせてくれるフィールドである。人と繋がり、歴史を重ねていくという点では、人は変わっても山は変わらないという、どこかで聞いたようなフレーズが実はそうではなく、山も人と同じ様に変わっていくのだと、最近個人的に解釈をしている。
やっぱり、山は面白い。
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