|
![]() |
一つ目は昭和23年の作で、純粋な山の歌としては戦後最初のものです。
しづみゆく夕日にはえてそそりたつ 富士の高嶺はむらさきに見ゆ
恐らくは、葉山の御用邸あたりで詠まれたものでしょうか。特に秋から冬にかけて、相模湾から望む夕暮れの富士は本当に素晴らしいもので、三浦半島周辺で育った私には忘れがたいものです。「そそりたつ」という表現はやや大げさな感じもありますが、相模湾からの富士は距離が近い分だけ、東京あたりから見るよりも高く大きく見えることは確かです。
http://www.yokohama-mobilepla.jp/hayamakarahuzisanyugure.html
二つ目は、昭和35年、九州への空の旅の途上詠まれたものです。
白雲のたなびきわたる大空に 雪をいただく富士の嶺みゆ (写真1)
機上から詠まれた山の歌はほかにもいくつかありますが、地上で詠まれた歌に比べると、定型的で興趣に乏しいものが多いようです。昭和46年、欧州旅行の途上で詠まれた二首についても同じことが言えそうです。
アラスカの空に聳えて白じろと マッキンレーの山は雪のかがやく
ヨーロッパの空はろばろととびにけり アルプスの峰は雲の上に見て
富士の歌に戻ると、三つ目は昭和53年、長野県でのやまびこ国体に出席され、帰京の途上中央線の車中で詠まれたものです。
山やまの峯のたえまにはるけくも 富士は見えたり秋晴れの空
中央線の車中から富士山が見えるところというと、まず甲府周辺が思い浮かびますが、「はるけくも」という表現にはそぐわないように思います。山岳展望ソフト「カシミール」によると、富士山は諏訪湖あたりでも平地から見えるようですから、おそらくは諏訪盆地から茅野方面に登っていく途中あたりで前方遥か遠くに富士の姿を認められたものと想像したいところです。(可視マップ)http://www.geocities.co.jp/fujisan62jpnmap/kashi.html
(塩尻峠からの富士)http://www.ktr.mlit.go.jp/honkyoku/kikaku/fuji100/highlight/ukiyoe124.htm
最後の富士の歌は昭和56年、富士川を渡る新幹線の車中で詠まれたもので、翌年の歌会始のお題「橋」に向けたものです。
ふじのみね雲間に見えて富士川の 橋わたる今の時の間惜しも (写真2 ――川瀬巴水「富士川」、版画、1933年)
列車の窓からちらりと見える山の姿に、もっと長く見られれば良いのにと思う、その気持ちを歌にされたとても素直な歌だと思います。昭和天皇の山を見る目には、独自の視点が出ているという印象はありませんが、誰もが感じることをそのまま歌にした親しみやすいものが多いようです。
富士や郷土富士の歌が多い昭和天皇ですが、それ以外の山を詠んだ歌も残されています。
一つは昭和50年5月下旬、全国植樹祭のため滋賀県を訪問されたときに詠まれた歌です。
比良の山比叡の峯の見えてゐて 琵琶のみづうみ暮れゆかむとす
「湖畔のホテルにて」とありますので、その折宿泊された旧琵琶湖ホテル、現在の「びわ湖大津館」で詠まれた歌なのでしょう。http://biwako-otsukan.jp/index.php
http://yasdai.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2010/09/29/100929_05.jpg
比良と比叡といえば、島崎藤村は詩集『夏草』(1898年)に収められた「晩春の別離」のなかで、
これより君は行く雲と
ともに都を立ちいでて
懷(おも)へば琵琶の湖の
岸の光にまよふとき
東膽吹(いぶき)の山高く
西には比叡比良の峯
日は行き通ふ山々の
深きながめをふしあふぎ
いかにすぐれし想をか
沈める波に湛ふらむ
と歌っています。昭和天皇の二年後に生まれた深田久弥は、中学時代に島崎藤村の詩を愛誦して暗記していたと書いていますが、同世代の昭和天皇がこの詩を知っておられた可能性は十分あると思われます。琵琶湖のほとりで比叡・比良の山々を望んだおり、藤村の一節を思い出されるようなこともあったのかもしれません。
最後に昭和58年10月、あかぎ国体の開会式に出席するため、群馬を訪れた折に詠まれた歌を二首ご紹介しましょう。
薄青く赤城そびえて前橋の広場に人びとよろこびつどふ
そびえたる三つの遠山みえにけり 上毛野の秋の野は晴れわたる
高崎や前橋あたりから見る赤城山は本当に立派です。大らかに伸びた裾野の見事さでは、日本有数といっていいでしょう。「昭和天皇御製を読む」というブログを書いている「狂犬 矢嶋博士」氏は、この歌では、「薄青」が「赤城」を呼び出し、「前橋」が「広場」を呼び出していると分析しています。http://yasimahirosi.at.webry.info/201107/article_4.html
天皇は国体に関する歌を多数残されており、その中では「広場」に人々が「つどふ」という形象がよく表れるので、「前橋」と「広場」の照応は偶然かと思いますが、「薄青」と「赤城」は確かに鮮やかな色彩的コントラストをなしています。技巧とは無縁に見える昭和天皇の御製も、それなりの技法に支えられている、ということでしょうか。
二番目の歌の「三つの遠山」について、「狂犬 矢嶋博士」氏は上毛三山(妙義・榛名・赤城)だとしています。http://yasimahirosi.at.webry.info/201107/article_6.html
上州で三つの山といえば、上毛三山を思い浮かべるのは当然でしょうが、例えば前橋市内から眺めた時、赤城と榛名に比べて、妙義は遥かに遠く、小さく見えます。三山といっても、仲良く並んだ三つの山、という感じは全くありません。景色を忠実に詠まれることの多かった昭和天皇が「三つの遠山」といわれるからには、この訪問の折に訪れた赤城山から下る途中にでも、どこか遠方の山をご覧になったのではないかとも想像するのですが、確証はありません。
「上毛野」を「かみつけ」と読むと第4句はすわりがよいのですが、矢嶋氏の説通り、「かみつけぬ」ないし「かみつけの」と読むのが正しいのでしょう。その昔、草深い野の広がる関東平野の北辺は、端的に「毛野」と呼ばれ、そこを流れる川は「毛野川」(現在の鬼怒川)と呼ばれていました。そんな時代の光景が浮かんでくるような、大らかな歌だと思います。
最終回は雲仙と阿蘇、そして那須の歌をご紹介することにしましょう。
タンノさんこんにちは
たしか赤城山を下から歩いて登っていましたよね。下の方の風景はさまざま変わってしまいますが、和歌にすると毛野の時代の風景が頭に浮かぶのが不思議です。現代の風景に変わってしまっている山麓を歩くには、こういう「時代変換」の回路が無いと、ただの苦行になってしまいますね。
富士川鉄橋からの富士、山好きの気持ちがわかりますね。いまどき、車窓の山は建物で遮られて、川を渡るときしくらいしか見えない。それも新幹線ならあっという間でしょう。
富士川の版画も、塩尻峠の版画も良いですね。大きくして眺めたいものです。
Yoneyamaさん、毎回のコメントありがとうございます!
確かに「上毛野」という言葉があることで、いにしえの風景がよみがえってくるような効果が出ていますね。東京都内にいるときでも、秋葉原は秋葉神社、文京区白山は白山神社、新宿には赤城元町があって赤城神社がある、という風に思ってみれば江戸の昔に戻って山岳巡礼ができそうですね。
富士川の版画の作者は川瀬巴水という人で、浮世絵版画を近代的によみがえらせようとする作風で、むしろ欧米の愛好家によく知られているようです。私もアメリカで偶然この版画の絵葉書を目にして知りました。奇をてらわず親しみやすい点は昭和天皇の歌に通じるかもしれませんね…
それではまた。。。
コメントを編集
いいねした人
コメントを書く
ヤマレコにユーザー登録いただき、ログインしていただくことによって、コメントが書けるようになります。ヤマレコにユーザ登録する