人の社会は目的に縛られている。役に立たなければならない。金を稼がなければならない。人に迷惑をかけてはいけない。ただ「いる」だけということはほとんど許されていない。
人生は選ぶことができない。どのような能力を持ち、どのような環境に生まれ、どのような性格になるかは生まれつきと成り行きであるが、「自己責任」が求められてしまう。たかだか百年ほどで無に帰すものであるが、自由意志を前提として社会が求める目的にそぐうように生きさせられる。そのために「常識」を身に付け、勉強し、人間関係を作り、働き、「まともな人間」としてふるまうのである。そしていつしかそれを内面化し、他者にもそうすることを求めてしまう。
山に行くときは一人が多い。一人で山に行くとき、身体も精神も社会から解放される。独り言を言いながらながら歩いても笑われないし、癖を我慢する必要もない。何をいつ食べてもいいし、行儀も気にしなくていい。
商業化された社会では何に興味を持ちどう楽しむかもマーケティングと広告と商品設計によって操作されている。「金を稼ぐ」という目的のためにあらゆるものが商品やサービスとして作られているからだ。山は決して我々人間を楽しませるために作られたのではない。意志で以って我々を楽しませることはないが、何に興味を持ちどう楽しむかを操作してくることもない。
本来「登頂」「踏破」などというものも社会において目的化されたものであり、山歩きにおいて本質的に求められるものではない。名誉欲や目的意識は「社会性」である。「社会性」からの解放こそ自然の中で得られるものではないだろうか。
端的に言うと、精神と身体を社会の求める枠にはめるのは疲れる。意志も目的も持たない山に入り込み、ただ「ある」だけのものに触れることによって好奇心や美意識、さらには不安や恐怖といったネガティブなものまで含めた内発的な感情・情動があるがままに立ち現れる。この時「社会性」に抑圧された自己の内面を解放することができる。
「なぜ山に登るのか」という問いがある。その問いにあるような意志と目的を前提とした思考からの逃避のためというのが私なりの答えの一つになる。
注記:一人で山にいる間は社会性から解放され自由であるが、盗掘やごみのポイ捨てなどの自然破壊行為はしてはならない。物的存在としての土地や森林には所有者がありその意味ではそこは社会である。また自然そのものは社会性とは無関係であるがゆえに社会性から解放されたからと言って破壊していいことにはならない。
(画像は西赤石山からの笹ヶ峰・石鎚山)
「山に行くときは一人が多い。一人で山に行くとき、身体も精神も社会から解放される。独り言を言いながらながら歩いても笑われないし、癖を我慢する必要もない。何をいつ食べてもいいし、行儀も気にしなくていい。」
↑僕が山で自由を感じる理由が、正に!言語化されてて嬉しかったです。
「商業化された社会の外にある「山」」というお考えにとても共感いたします。
コメントありがとうございます。人と行くのも楽しいですが、誰にも気を使わない一人の気楽さもいいですよね。自由な解放感と単独行の緊張感のバランスが「旅」という気分にさせてくれます。
明快な答えの出ない問いですが、『その問いにあるような意志と目的を前提とした思考からの逃避のため』というお答えはカッコイイですね。
私は、誰かに訊かれれば「心身の健康のため」と簡単な答えをしているのですが、たまには少し難しい答えを言ってみたいと思いました(笑)
コメントありがとうございます。『岳人』でテーマになっていたんですね。健康のためとという方は少なくないと思いますが、私は体より心の健康のほうに少し問題があるのでこのような考えになっています。
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