例えばシラネアオイ、キヌガサソウ、キクザキイチゲ、ミズバショウ、ワタスゲ、サンショウバラ、ヒメサユリ、スカシユリ。
登山道や遊歩道から普通にみられる有名な花ばかりで「え、珍しいの?」「山登りしてて見たことないの?」と思った人もいるかもしれない。もっと言うと「こいつ登山ニワカか?」「モグリか?」と思った人もいるかもしれない。
これらの植物は分布が東日本や日本海側に偏っている。西日本太平洋側の住人である私にとっては遠い花なのである。個人的に今までスケジュール的に5〜7月にかけての遠出が難しい時期が長かったこともあり、今まで見る機会を逸し続けているのだ。近場の植物園等で見られる場合もあるが、山野草は遠大にして複雑な地史と生態系システムを背景に持つものであり、多くの偶然と必然の積み重ねで「そこにある」ことが大きな価値なので、やはり現地に自生するものを見た時の感動に勝る物はない。
どのような植物や植生景観を身近に感じるかは地域によってかなり異なる。冒頭に挙げた花々を見慣れた人たちは、例えばユキモチソウ、ササユリ、ヒメシャラ、シリブカガシなどはなかなか見ることが無いのではないだろうか(ちょっと地味なものが多く「憧れの花」にはなりにくいが、派手な花ばかりが植物の価値ではない)。
植物・植生景観はその地域の生態系の基本となり土地の雰囲気や文化を形作る。見慣れたものには自分の「ホーム」としての安らぎを感じ、見慣れないものには旅の新鮮味や好奇心の高まりを感じる。これは自分がどの地域の人間かということに依存する。育った地域や住んでいる地域によって何を見てどう感じるか、さらに言えば自分がどのような世界に生きていると認識するかという世界観が異なるわけで、自然の多様性が人間の多様性になっているのだ。
人間は自然の一部である。これまでの長い歴史上地域の自然環境との相互作用の中で様々な生態系サービスを享受し、文化を醸してきた。そして、ある自然景観の中で人間が育ちその精神の内面、世界観が作られることで、自然は感性や思考の基盤の一つとして人間の一部となる。
我々が山と交わるとき、身体を取り巻く外界である自然環境が自らの精神と不可分のものとして立ち現れる。人と自然、互いが互いの一部であることを認識し、その出会いによって感性と思考がこれまでにない働きを得る時、登山はただのレジャーに留まらず内面と外界の深い交流として昇華されるのである。
(画像はササユリとシリブカガシ)
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